憧れの風の「疲れ気味のため短くグチ+公明党の言われ、初めて知った!」のエントリーで知ったのだが、オイラも知らなかった。メモしとこ。そういえば昔、創価の家に用事で行った時、そこの家のせがれの本棚に三国志が置いてあったナ。オイラも三国志、水滸伝は面白くて読んだが、池田大作も読んでたのか、。三国志好きの創価に
の日本共産党が勝てる訳きゃないな、、、。
「公明党のネーミングの由来をご存知だろうか。公明正大の公明ではなくて、あの公明党、なんと「三国志」フリークの池田大作が諸葛亮孔明をもじって、そのまま孔明党ではちょっと具合が悪いので、公明党と読み方だけ同じで違う字をあてはめたのが初めなのだそうだ。池田が「三国志をはじめようではないか」と檄を飛ばして創価学会は政界に本格的に腰を据えるために孔明党ならぬ公明党を結成した。創価学会の政界進出は戸田城聖の時代にさかのぼる。昭和31年7/11の朝日新聞朝刊には「爆発的進出の『創価学会』」と題して、参議院に3人の議員を送り込み、地方議会に52人の議員を送り込んだ創価学会についての記事がある。この頃はまだ公明党を名乗っていない、戸田の存命中には創価学会の議員らは会派に公明の字を使用していなかった、むしろ選挙キャンペーンなどでお役所が「公明選挙」などとクリーンな投票を訴えるのに公明の字を使用していた。
上記部分も興味深かったが、引用元の記事中、
支持するケース~作家・宮本輝の場合
テキスト「春の夢」「避暑地の猫」
「春の夢」は学会文学と呼んでさしつかえない作品である。
(途中略)
作品そのものにまったく関係ない、むしろ不自然過ぎて不要とも思えるこのくだりは、学会以外の仏教はすべて邪教とする学会の教義に基づいたものとして差し支えあるまい。こうした一般の読者が読むと極めて変なくだりは、作者の学会信者に対する隠しメッセージなのである。過去に「笑点」という番組で学会員である林家こん平が、同じく学会員であるジョージ・チャッキリスの指弾きは格好いいが、他宗の僧侶であるポール牧の指ぱっちんは無様だ、と何が面白いのかよくわからない発言をしたように。林家こん平のこの大喜利での発言は、遠回しな学会信者へのメッセージであった。
も興味深い。創価以外には分からないね。引用元も興味深いのでメモ、
創価学会の昭和史
海外の書籍で日本の現代史を扱った本を眺めるともなしに眺めていると、必ずといっていいほど、ローマ字書きで創価学会と書かれた単語に出くわして面食らう事がある。翻って日本国内で発刊されている昭和史の本は余り創価学会について触れているものは少ない、いや創価学会が昭和史に果した大きな影響に比して、その扱いは非常に小さいと言ってもいいだろう。誰もが名前は知っているが、その中身はどういうものかはほとんど知られていない創価学会、その創価学会を絡めた昭和のもう一つの顔を覗いてみようと思う。
創価学会、およそ宗教らしからぬ名前だが、それもその筈、戦前は創価教育学会を名乗り、創立当初は純然たる教育者の団体だったのである。初代会長の牧口常三郎は、柳田国男などの影響を受けた地理学者で、小学校の校長などを勤めていた人である。かねてから教育改革に燃えていた牧口は、昭和3年、日蓮正宗(日蓮宗ではない)に出合い、仏法による「人間価値の創造」をめざし、昭和5年に創価教育学会を設立した。創価学会とは、人間価値の創造をめざす教育学会という意味なのだ。戦前は新興宗教といえば天理教全盛の時代で、創価教育学会は信者も1万人に満たない小さな団体であった。その後、伊勢神宮の神札の下付を拒否した牧口は、昭和18年に逮捕され、昭和19年に獄死した。これは反戦思想ではなく、日蓮正宗独特の、他の宗教は形だけでも受け入れてはいけないという教義によるものである。これが牧口時代で、創価学会前夜ともいうべき時代であった。
組織としては壊滅した創価学会を再興したのが、戸田城聖である。戦前に「推理式指導算術」という、いわば参考書のようなものを書いて大ベストセラーとなるなど、学究肌だった先代の牧口とは打って変わって、元学会信者だった志茂田景樹に折伏鬼と評されるほど、行動力と抜群のカリスマ性を備えた人間だった。ある暑い最中の日、集会の会場には扇風機が1台しかなかった。壇上に座った戸田は、その扇風機を自分に向けて、おもむろにこう語りだしたのだと言う。「皆さんも、はやく、こういう立場の人間になりなさい、信心すれば必ずなれる」。普通の宗教家だったら、会場にいる人たちの方に扇風機を向けるだろう、しかし戸田は違った。この品が無いといえば無さ過ぎるパフォーマンスが、気迫に満ちた人間性とあいまって、戦後まもなくの躍動感溢れる粗削りの世相にマッチしたのである。事実、この扇風機のパフォーマンスに圧倒されて、戸田に人生を託そうと入信した人間は実在するのだ。昭和26年にようやく5000世帯であった創価学会は、戸田の会長在任中、わずか7年後の昭和33年には75万世帯という驚異的な信者数の激増ぶりを示したのであった。創価学会というと池田大作の個人商店のように、何も知らない若い世代には思われがちだが、およそ宗教家らしからぬ人間の欲望を堂々と肯定し、豪放磊落を絵に描いたような戸田というカリスマがいたからこそ、今の巨大教団創価学会が存在するのである。なお、現在の聖教新聞など、創価学会がビジネス集団として機能するためのアイディアを発案したのも、この戸田であった。
池田大作「人間革命」後継の章には大石寺の大講堂落慶総登山に戸田城聖が峰首相を招待するが、ドタキャンされるくだりがある。これは実話で、作中では峰首相のドタキャンは外交問題の突発を口実にしたものの、与党の山田誠之輔議員が「首相ともあろうものが新興宗教のお先棒をかつぐようなことがあっては大変だ」と猛反発したためと解説されている。そして峰首相の代わりに秘書の河部幸太郎と西条敏男議員が出席したとしている。現実には昭和33年3/16に岸首相が戸田城聖の招待を「外交問題が忙しくなったから」と断ったのは事実だが、その岸首相に圧力をかけたのは宿谷栄一元参院議員と池田正之輔議員で、それら議員のバックには創価学会と対立する日蓮宗が控えていた。そして岸首相の代わりに当日やって来たのは、南条徳男前建設相、安倍晋太郎秘書、そして東京都の安井都知事であったが、戸田は南条に「あんたは岸首相の四天王と言われているそうだが、八天王ぐらいだろう」と嫌味を言っている。戸田は4/1に帰京、4/2に死去、付き添いは夫人だけだった。その後、創価学会は小泉隆理事長(51)が暫定的に仕切る形となったが、毎週土曜午後6時に行われた大石寺の質問座談会では4/12、戸田に代わった小泉の登壇に「ソツがない」と批判が上がった。戸田の頃の質問座談会では、戸田は酒が入ったままやって来て、迫力ある押し出しでおもしろおかしく臨機応変に回答し、難しい質問には「あんまりいじめるなよ」と返してその場は大爆笑といった雰囲気だったため、人の心をつかむという点で小泉は不利であった。創価学会の後継者はこの頃、未定。戸田の息子は三菱銀行社員で世襲は本人も周囲も否定していたため、誰が後を継ぐのかが話題となっていた。戸田に負けないほど人心掌握に長けた池田大作が表舞台に姿を出すのは、しばらく先の話となる。
大変なカリスマだっただけに戸田の急逝は、まさに創価学会の正念場だった。昭和33年、戸田の死を知った当時の日本人誰もが、創価学会はこれでお終い、と固く信じて疑わなかったのである。しかも戸田は明確に後継者を指名しないまま死んでしまったので、学会内部も混乱を極めていた。そんな中、急速に頭角をあらわしてきたのが、当時は幹部でも若手であった池田大作である。大森海岸出身で大世学院(東京富士大)を苦学して休学の末、何年も経ってから卒業した池田は本来、文学志望だったのだが、創価学会のビジネス面で才能を発揮、政治力にも優れ、その持ち前の迫力で戸田の後継者の地位を確実なものとした。池田は戸田にも負けぬカリスマ性を発揮し、戦後の高度成長に乗り遅れた人々の不満を一身に救う形で、創価学会800万世帯を達成、公明党を組織して政界にも橋頭堡を築き、いまや首相指名などにも影響力を行使するまでになったのは周知の事実である。平成に入ってからは、日蓮正宗と喧嘩別れをしたが、信者数に特に変化もなく現在に至っている。創価学会は戸田というカリスマのすぐ後に、池田というカリスマ指導者を得て、ステップジャンプの形で飛躍的な教勢拡大に成功した。戸田と池田という傑物を二代続けて指導者として持てた創価学会の強運。この2人のどちらが欠けても今の学会はなかっただろう。
創価学会は死後の救済よりも現世でいかによりよく生きるか、が教義である。特にうるさい戒律などもなく、唯一、他の宗教に関係のある行事やしきたりに参加したり、従ってはいけない、毎日、題目を唱えるなどといった事さえ守っていれば、何の問題もない。学会信者に風俗産業や芸能関係の信者が圧倒的に多いのは、身分や門地を問わないという事もさる事ながら、この教義による部分も大きい。キリスト教では同性愛や娼婦は背教であるが、学会では別に構わない。また肉食を禁止する宗教などもあるが、学会は別にそうした禁止事項は一切、ない。また、よく書店などでキャンペーンをやっている「人間革命」というのは、池田大作が聖教新聞に連載している創価学会の歴史を書いた小説のタイトルになっているが、元々は、自分の心の持ちようをポジティブに変える事で、自分の運命や自分の周囲の人間もプラスの方向へ変わっていく、などといった意味合いを持つ。なお小説「人間革命」の山本伸一とは池田本人をモデルにした人物で、学会員なら、この山本伸一という名前や「♪濁悪の、この世ゆく学会の」という学会歌、威風堂々の歌は誰でも知っている。写真は丹波哲郎が戸田城聖を演じた映画「人間革命」。
なんで、こんなに創価学会は短期間で信者を激増させる事に成功し、また信者でない人間には悪口を盛んに言われているのか。日本は敗戦により、絶対的な価値観を失ってしまった。その喪失感の隙間を埋めたのが創価学会の求心力であった、という側面と、戦後の急速な高度経済成長の恩恵を受けなかった人々、いわゆる取り残された人々に生きがいを創価学会という「一社会」が与えたという側面がある。公明党と共産党は昔から仲が悪い。それもその筈で、本来なら共産党が取り込む筈だった政権への不満層を創価学会=公明党がほとんど吸い取ってしまったのだから、仲がよかろう筈がない。日本に革命が起きなかったのは、左翼に流れる筈の大多数の人々が創価学会信者になってしまった、というこの一事に尽きるのだ。それ以外にも学会の急成長に見落としてはならない事がある。それが折伏大行進といわれた、強引で執拗な勧誘である。昔の学会はやくざより怖かった、というのは四宮正貴だったかが書いていたが、今の新聞勧誘の比ではない、凄まじい勢いでの折伏が日本中で行われていたのである。勝手に家に上がりこんで、神棚を壊しただの、他宗の仏壇を破壊しただのといった話が広まるほどなのだから、半端じゃない勧誘であったのだろう。この折伏戦を体感している世代で学会信者ではない人たちに、学会への反感があるのは当然の事でもある。もう一つは学会は、公明党を作って政界進出してしまったという事がある。公明党は元々、王仏冥合などと言って、国立戒壇設立などをスローガンにしていた経緯もあり、日本が宗教国家になってしまうのではないかという恐怖心が、信者でない人たちに広まった。その後、学会は強引な勧誘もやめ、公明党も祭政一致のスローガンは放棄したのだが、その当時の後遺症は、そうした時代の学会を肌で知らない世代にも、学会の悪口を言わせる遠因として残ってしまった。親の世代や週刊誌などの力も大きい。
公明党のネーミングの由来をご存知だろうか。公明正大の公明ではなくて、あの公明党、なんと「三国志」フリークの池田大作が諸葛亮孔明をもじって、そのまま孔明党ではちょっと具合が悪いので、公明党と読み方だけ同じで違う字をあてはめたのが初めなのだそうだ。池田が「三国志をはじめようではないか」と檄を飛ばして創価学会は政界に本格的に腰を据えるために孔明党ならぬ公明党を結成した。創価学会の政界進出は戸田城聖の時代にさかのぼる。昭和31 年7/11の朝日新聞朝刊には「爆発的進出の『創価学会』」と題して、参議院に3人の議員を送り込み、地方議会に52人の議員を送り込んだ創価学会についての記事がある。この頃はまだ公明党を名乗っていない、戸田の存命中には創価学会の議員らは会派に公明の字を使用していなかった、むしろ選挙キャンペーンなどでお役所が「公明選挙」などとクリーンな投票を訴えるのに公明の字を使用していた。
記事では参院選の選挙違反で戸別訪問にからむ摘発の8割が創価学会関係であったと指摘、病人や家庭内に悩みを持つ人を会員が訪ねては「会に入会して創価学会推薦の議員に投票すれば病気や悩みはたちどころに消える、もし拒めば仏罰で一家は滅びる」などと言ってまわったり、地域の有力者や地方議員には「会に入会すれば多数の会員が次の選挙であなたの手足になって働くようになる」などと勧誘、戸田会長自ら「金は使わないのだから逮捕されるいわれがない」と親類や知人宅への戸別訪問への檄を飛ばしているとしている。
政界進出と合わせて、爆発的な会員数の伸びにもカラクリがあった。これも同日の朝日新聞に掲載されている。特に目的を告げず伝言ゲームのようにして大学生を狩り集め、信濃町駅に集合させ、そこからタクシーに乗せて土建会社の寮へ。そこでいきなり創価学会の御本尊御下附願という紙に住所、氏名、生年月日を書かせ、そこからまた車で日蓮正宗の寺へと向かい、数珠、巻物、経本などを渡されて「南無妙法蓮華経」と三遍唱える。これが終わると車に再び乗せられて銀座のバーへ。そこで大学生らは土建会社の青年信者らの奢りで閉店までビール飲み放題。件の青年信者らいわく、本音ではこういう馬鹿げた勧誘は止めたいのだが、一般への勧誘も頭打ちで、無言の会員獲得の圧力もあってついやってしまうのだという。熱血型だった戸田城聖は新聞記者に身振り手振りを交えて熱弁する。「あやふやな信者がふえるより熱心な一人の信者の方が貴重だ。全く馬鹿な話だ」。
昭和32年6/26の朝日新聞朝刊には、創価学会と左翼との直接的な対決ともなった、九州や北海道での炭鉱労働者への学会の浸透についての記事が掲載されている。炭労の側では、組合員に学会信者が激増、組合自ら推薦する左翼候補ではなくて学会の候補にこれら組合員が投票してしまう事で、盛んに反学会のデマなどを飛ばしていた。筑豊労組の古河山田では
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