キューバについてちょっと勉強して見ませんか。(WBCキューバ戦を機会に思ったこと。)
末尾でご紹介している朝日のキューバ国内でのWBC熱気を伝える記事中、キューバの共産党機関紙が「グランマ」とあります。グランマはご存じのようにおばあちゃんの意味です。なんで「おばあちゃん」が共産党機関紙の名前かと言うと、若き日のカストロたちがフルヘンシオ・バティスタ独裁政権を打倒しようとキューバに向かったときに乗り込んだオンボロクルーザーの名前が「グランマ」号だったからです。
最初から多数派の革命勢力と言うのはなくて、どの革命勢力も最初は少数から始まります。キューバのカストロがキューバ東部の山岳地帯(シェラマエストラ)に近い海岸に上陸したときには、女性二人を含む82人の武装した同志(!)とでした。この人数が"お婆ちゃん号(グランマ号)"と言うなんと定員14人乗りの老朽ボートに乗り込み(まるでボートピープル、よく沈没しなかった)バチスタ独裁政権の5万の兵士に戦いを挑み、最終的には勝利します。
なお、余談ですが、海岸上陸したのは1956年12月2日ですが、なんとフィデル(カストロ)は、前もって1956年の年内に上陸すると宣言していました。軍事訓練してくれたバヨ元大佐が「作戦は秘密にしておかなければならない」と抗議したのに対してフィデルは「あなたに教わった事は承知しています。けれどもこの場合、私はキューバの人たちに私たちが来ると言うことを知っていて欲しいし、私たちの7月26日運動を信頼して欲しいのです。軍事的には公表することはまずいと言うことは良く知っていますが、(公表は)やむにやまれぬ私自身の癖なのです」と言ったそうです。案の定、上陸と同時に独裁者の空軍に発見され、82名はバラバラになってしまいます。年明けの1月1日フィデルがピコ・トルキノと言うシェラマエストラ山中で最も高い、標高2005メートルの山頂に達したときには、残った同志はたったの12人だったようです。一方、他の無事に山中に紛れ込んだ他の同志たちは武器や志願する者を集めるために密かに都市へ派遣されます。
山嶺にうちひしがれ飢え傷ついた12人の男がやっとの思いで集まったのですが、その後都市で地下活動をやっていた同志達のうちの一人が連絡に登山して来ます。その時、フィデルは「これで勝った。3週間のうちに、20人の武装した同志を送ってくれ。(これから)勝ち戦に転換だ」と言ったそうです。そしてこう言ってからわずか2年後に、ヒゲ面のゲリラ達が凱旋でハバナ入りすることになります。
※文中、バヨ元大佐とあるのは、アルベルト・バヨ元大佐。キューバ生まれ、独眼竜の元スペイン軍人。スペイン内戦では共和派に属して闘う。ゲリラ戦の専門家。フランコ独裁政権が成立してからは一度キューバに戻り、1942年にメキシコに再亡命し、メキシコ空軍の先生となる。1955年の年末にフィデルと面会したときには既に退役し家具屋をやっていた。そしてフィデルに頼まれて、若きゲリラ戦士を1年間軍事訓練します。時に、フィデル29歳、弟のラウールは24歳でした。
以上、堀田善衛「キューバ紀行」を参照しました。(僕は「堀田善衛全集
」の11巻で読みましたが、ご紹介した「キューバ紀行
」は集英社から出ている単行本です。)
※なお、革命後の生まれたばかりの若いキューバは経済封鎖などで徹底的にアメリカにいじめ抜かれます。その時、唯一近隣諸国で国交があったのはメキシコでした。そのメキシコが今回、ホームランを二塁打にされたりとかインチキ判定を米審判にされながらも米国チームを2-1と打ち負かしました。結果、一度は首の皮一枚になった日本を準決勝に生還させてくれたのです。どちらも親日国であり、なんとも言えない運命の糸を感じてしまいます。
余談ですが、若きカストロたちが当初はマルクス主義もよく知らなくて、革命10ヵ月後のカストロの演説でも「我々革命政府を共産党だと非難している国がある」と不満をもらしています。若き彼らは、人々に誠実に政権運営する結果として、また隣の巨大国米国にいじめ抜かれる中で社会主義を選ばざるを得なかったことが「キューバ紀行」の中で語られています。また、キューバの人々、またカストロ自身がマルクス主義とどうかかわっていったか、堀田善衛さんのユーモアあふれる筆致で語られてゆきます。
もう一つ下記朝日のWBCのキューバ国内での熱気を伝える記事中、
『チームは出発前、カストロ議長に呼ばれて直々に激励された。その際、革命家チェ・ゲバラがよく使った「勝利に向かって常に前進せよ」という言葉を贈られた。』
とあります。革命家チェ・ゲバラと言うのはカストロの無二の盟友です。革命と言うのは、独裁政権を打ち倒すことも大事ですが、実際に大変なのはその後に長く続く政権運営で内実のあるものにすることです。一度はキューバ国立銀行総裁、工業相と歴任しながらもゲバラは再度南米の地に戻って行きゲリラ活動に入ります。そして、最後にはボリビアで殺されてしまいます。その情熱を一番理解したのはカストロだろうし、カストロ政権の大変な前途を気遣ったのもゲバラだったと思ってます。
ゲバラは生前、日本の坂本竜馬を革命家として非常に尊敬していたようです。また、1959年にアジア・アフリカの親善大使として来日して12日間滞在しました。このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目にあわされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と案内人に語ったと言われています。(更に詳しくは)
チェ・ゲバラ(Che Guevara)、本名エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna, 1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれのマルクス主義革命家で、キューバのゲリラ指導者。「チェ」はアルゼンチンのスペイン語で相手に呼びかけるときに使う言葉に由来するあだ名である。革命家として日本の坂本龍馬を非常に尊敬していたという。
Che.jpg (64KB, MIME type: image/jpeg)
チェ・ゲバラ
(アルベルト・コルダ撮影の
1960年3月15日写真[1]より)
Wikipediaチェ・ゲバラより
2006年03月20日12時27分
写真
ギャラリー用:米サンディエゴで18日に行われたWBC準決勝キューバ対ドミニカ共和国の試合で、キューバ国旗を掲げて声援を送るファン=AP
ワールドベースボールクラシック(WBC)決勝で、日本と対戦するキューバでは、共産党機関紙グランマが連日、1面で結果を大きく報じ、国営テレビの政治討論番組でも活躍ぶりが議題になるほど熱が入っている。野球が国技で、五輪でも金メダルを三つ獲得したアマ球界「最強」とされるチームだけに、国民の「世界一」への期待は高い。
ハバナからの情報によると、キューバの試合の模様はすべて国営テレビで生放送されている。人々の目はテレビにくぎ付けで、寄ると結果が話題になっているという。
決勝進出を決めた18日には、喜ぶ市民らが道に繰り出して国旗を掲げたり、車がクラクションを鳴らしたりしたと、AP通信は伝えた。
チームは出発前、カストロ議長に呼ばれて直々に激励された。その際、革命家チェ・ゲバラがよく使った「勝利に向かって常に前進せよ」という言葉を贈られた。
プエルトリコからの報道によると、同国で行われた1次リーグの対オランダ戦ではバックネット裏で、反カストロ派の男性が議長を中傷する言葉を掲げてテレビ画面にも映ったためキューバ側が態度を硬化させ、試合後の記者会見を拒否する場面もあった。キューバの大会参加には当初、キューバへの経済制裁を仕切る米財務省が反対するなど、国際政治が影を落としてきた。
これに対し、17日付グランマは「開催国が決勝に進めるようにと(米国に)有利な日程が組まれたにもかかわらず、決勝はアジア対カリブになった」と、米国の敗退を誇らしげに伝えた。米国の対日本、対メキシコ戦で「疑惑」判定を繰り返した米国人審判についても「信じられない」との批判の声が地元メディアで伝えられている。
ただ、「敵地」米国で大リーグのプロ軍団を下すのが多くのキューバ国民の夢だっただけに、米敗退を残念がる声もあるようだ。
キューバと日本は、大きな国際大会のたびに相まみえる強豪同士。キューバの野球ファンは、04年のアテネ五輪で松坂投手の好投で日本に黒星を付けられたことを悔しい思いで覚えている。
EFE通信によると、ベレス監督は日本について「彼らのことはよく知っている。偉大な選手がいるし、野球の心がある。ラテンアメリカの我々とそっくりだ」と話している。
関連投稿
「今朝のワールド・ベースボール・クラシックの西岡のタッチアップ走塁を見ましたか。アメリカは汚いね。」
日本来訪 [編集]
1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本に訪れた。当時の日本での知名度は低く、朝日新聞が“カストロ・ヒゲ[1]”と揶揄同然に報じたのみで、他社には無視された。7月23日には午前中に愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープ型4輪駆動車の製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために帝国ホテルで池田勇人通産相に15分間の会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くない事を知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、予定を変更してオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使を伴って全日空機で岩国空港に飛んだ。広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れている。娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に原爆死没者慰霊碑に訪れている[2]。
なお、このゲバラの広島行に関しては、市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かったという説もある。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか、昭和47年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。当時の日本の状況で、日本語がまったくわからない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対してそのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、また、なによりもこっそり夜行列車で抜け出したにもかかわらず、広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いである可能性が高い[3]。
このとき、中国新聞の記者であった林立雄が単独取材した。「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」とゲバラは言ったという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、キューバでは現在でも、初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。
日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。
| 固定リンク






































































































コメント
日本はきっと優勝する。信じましょう。
投稿: つねさん | 2006/03/21 09:57
SOBAさん、こんにちは。
私も以前からフィデルの事をSOBAさんと同じ視点で記事にしたいと思っていたところでした。
>若き彼らは、人々に誠実に政権運営する結果として、また隣の巨大国米国にいじめ抜かれる中で社会主義を選ばざるを得なかった
その通りだと思います。というわけで、私もエントリーを建て、上の部分などを含む一部を引用させていただきました。
投稿: | 2006/03/23 20:31
上のコメントに名前を入れ忘れました(汗)。
投稿: grevo | 2006/03/23 20:33