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2006年9月10日 (日)

阿部 謹也先生を悼む。

 昨日、夕方のニュースで阿部 謹也先生のご逝去を知りました。

 僕自身は、別に直接薫陶を受けたわけではない。最近、立ち寄り先でたまたま読み、感銘を受けコピーさせていただいたのが阿部 謹也先生の文章でした。ほんのつい最近のことで驚いています。以下、ご紹介します。

 以下、BUSINESS 2006.8より(BUSINESSはNTTの社内誌です)


一橋大学名誉教授 阿部 謹也氏(Message from Opinion Leaders )

日本におけるドイツ中世史研究の第一人者として知られ、最近では「世間」をキーワードに欧米とは異なる日本社会の特性に鋭い分析を加える阿部謹也氏。それとともに、大学人としての長い経験の中から、氏は日本における学問研究のあり方にも批判の自を向ける。私たちにも身近な「文系・理系」の区別を手始めに、日本の知の問題点を伺った。

あべ きんや

1935年東京生まれ。一橋大学経済学部卒。63年同大学院社会学研究科博士課程修了。専攻はドイツ中世史、小樽商科大学教授、東京経済大学教授、一橋大学教授を経て、一橋大学学長、共立女子大学長を歴任。97年から98年まで国立大学協会会長を兼務。一橋大学名誉教授。主な著書に『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)、『中世を旅する人びと』(平凡社、サントリー学芸賞)、『中世の窓から』(朝日新聞社・大佛次郎賞)、『「世間」とは何か』『「教養」とは何か』(以上、講談社現代新書)、『学問と「世間」』(岩波新書)など多数。


明治の近代化から生まれた
学問の「文系・理系」の区別

――「文系・理系」という分類の弊害をあちこちで説いていらっしゃいます。

 日本で一般的にいわれる「文系・理系」という概念は、学問的に決められたものではなく、国策で決まったものです。明治政府が日本の近代化を図る際、ヨーロッパやアメリカの先進的な学問や技術を導入することが必要でした。その中心的機関として大学を設置しました。そして、富国強兵・軍備強化という目的のためには科学技術を、不平等条約改正や国内制度整備のためには法学を、といった具合に、西欧の学問を取り入れた。大学に工学部を作ったのも、日本が初めです。

 そのような国策に沿って文系・理系の学問体系ができたわけです。旧制高校でも文系・理系の区別がありました。

 その流れが現在まで続いていて、高校などでは進学コースを文系・理系に分けていますよね。社会人になってもみんな「私は文系ですから」などと言ったりする。しかし、その根拠を聞いてみると、「数学が苦手だったから」といった程度のことが多い。その程度のことで一生の進路を決める形になってしまっているのです。

 これは日本だけの現象で、欧米には文系・理系を明確に分ける考え方はありません。例えば、マサチューセッツ工科大学(MIT)という大学がアメリカにあります。工科大学というから理系だと日本では思われがちですが、ここにはノーベル経済学賞の受賞者が何人もいる。"文系"の学問で非常に高名なのです。

 もっとも、最近の経済学はかなり高度な数学を必要とします。論文を見ても数式ばかりで全然分かりません。文系だと思って経済学部に入った学生は失敗するでしょう。でも私は、経済学者も社会心理学や文学が理解できなければダメだと思います。

 逆に、医学は理系とされていますが、現在の医療の現場では手術や治療といった肉体的な面よりもメンタルな問題が重要視されるようになっています。医学教育に大きな転機が訪れつつあります。

 最近は患者に「いかがですか」の一言さえ言えない若い医者が多いですよね。そのことをある大学の医学部長に話したら、「そこが一番の悩みです。新しい技術など教えることが多すぎて、基本的な人間教育ができていないんです」と嘆いていました。

 このように、学問のほうからすれば本来、文系・理系などと明確に分けることはできないわけです。明治の近代化に当たってはそれなりに意味があったかもしれませんが、今でもそれをやっているのは大きな問題だといえます。

学問本来の重要な役割が
日本ではなおざりにされている

――制度としての大学・学問のあり方に聞題があるわけですね。

 例えば「科学技術基本法」という法律がありますが、その第1条に「この法律は、科学技術(人文科学のみに係るものを除く。以下同じ。)の振興に関する施策の基本となる事項を定め…」とあります。学問を完全に「人文科学とそれ以外」に分けることなどできないのに、制度がそうなっていて、予算配分も理系の学問がけた違いに多いのです。

 文部科学省は"学問の先端を伸ばす"ことを中心課題として推進しています。では学問の先端とは何か、と聞くと明確な答えはない。精々が「先進国、特にアメリカの研究に追随すること」。その際、日本がトップランナーになってはいけません。成果が欧米で認められるかどうか分からないから、そんな研究には予算がつかないのです。アメリカがトップでやっている研究ならおそらく価値のあるものだろう、という考え方。政治と同じくアメリカ追随ですね。

 学問とは何のためにあるか。何をしなければならないか。学問分野によっても違いますが、私が専門としてきた"文系"の学問についていえば、現在の日本の社会や世界の情勢の分析が最も重要です。どこにどういう問題があるかを発見し、その解決方法を探る。それを踏まえて将来どういう方向に進むべきかの道筋を示す。これが学問の犬きな役割であるにもかかわらず、現在の日本ではなおざりにされています。

 地方都市がどこも経済的苦境に陥っているのはご存じのとおりです。商店街など軒並み"シャッター街"と化している。地方にある国立大学などは地方財政の立て直しに協力できるはずだし、しなければなりません。ところが、地方大学の経済学の教授は、街がどんなに寂れているかということにほとんど関心がないし、調査もしない。自分の興味だけで、マクロ経済学と称してアメリカの学問をやっているわけです。

 文部科学省は、日本を世界の学術の中心にしようと考えていますが、こんな状態でうまくいくはずはありません。

 日本の学者にはもう1つ決定的な弱点があります。いわゆる"専門ばか"だということです。ヨーロッパやアメリカの学者は専門ばかでは認められません。トップレベルの学者は、必ず自分の専門以外の分野で発言できる能力を持っています。典型的なのがノーム・チョムスキーという人です。元々は世界的な言語学者ですが、今度のイラク戦争に反対する本を何冊も書いている。そういう学者が欧米にはたくさんいます。

 ところが、日本の学者は専門以外の分野については話ができない人ばかりです。文系・理系が分かれていて、さらに専門分野がたこつぼ化していることの弊害でしようね。

文系・理系の分類にとらわれない
学問のおもしろさを教えたい

――先生が望んでいらっしゃるのはどのような学問のあり方なのでしょうか。

 万葉歌人・柿本人麻呂に次の有名な歌があります。「東(ひんがし)の野に炎(かぎろい)の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」。東方に日の光が差しそめて、反対に西空を見ると月が沈もうとしている、といった意味ですが、この歌が正確にいつ詠まれたかということを、東京天文台に問い合わせた人がいた。すると、歌の内容などから判断して、持統6年(西暦692年)12月31日の午前5時50分ごろだという返事が来たというのです。

 これは白川静さんという人文学者が『初期万葉論』という本で書いている話なのですが、私はこれを読んで驚きました。人麻呂の歌の成立時間までが天文学で分かる。こういうことを大学の一般教育で教えたら、学生は興奮しますよね。

 国文学の教師が『万葉集』の話をする。天文学の教師が暦や宇宙の話をする。両者は関係ないと、教師も学生も、社会も思っています。日本の大学では人文・社会・自然と分野を分けてしまうんですね。万葉集の研究者と天文学の研究者、共通するものはないと日本人は考えてしまいますが、お互いに話ができれば、例えば万葉集に星の歌が少ないのはなぜかといった問題にも広がりうるわけです。

 私自身の経験もお話ししましょう。小学校のころには、星を見るのが好きで天文学者になろうと思っていました。ところが、天文学には私の苦手な数学が必要だと分かってあきらめた。でもそれは間違いだったのです。日本の学校で「数学」といっているのはほとんど計算能力。計算の嫌いな人でも数学がダメとは限りません。

 大学に入ってすぐ、現代数学で「直径1cmの立方体の中に全宇宙を込める手続きを答えよ」という問題に出会いました。非ユークリッド幾何学という分野の問題ですが、このときも興奮したものです。数学は計算能力ではない、思考力なのだと気付いた。それからいろいろとものの見方が逆転していきました。

 このように、一般教育あるいは教養教育において、「文系・理系」といった固定的な分類にとらわれない学問のおもしろさを学生に教えれば、学生も発奮するはずです。計算が得意かどうかで進路が決まってしまう現状は改める必要があるでしよう。

 欧米にも文系・理系の区別がないわけではありません。ただ、学問のあり方や学問に対する態度が日本とは異なります。欧米の学問の根底には、神や宇宙のことを知ろうという執念がある。例えば、聖書の創世記に「神は大空の上の水と大空の下の水を創った」と書かれています。この意味が長いこと分からなかったのですが、12世紀になってある学者が解明したのです。「地上にある"下の水"が熱で蒸発して空中にたまるのが"上の水"。温度が下がると、それが雨になって落ちてくるのだ」と。

 このように聖書の解読が科学に結びついた。それがヨーロッパの学問の深いところにあるのです。ここには文系も理系もありません。

「世間」に無自覚・無批判なのが
日本の学問の最大の問題点

――日本にはまだ本当の学問が根付いていないということでしょうか。

 明治以降、日本は欧米の学問や文化を受け入れて一見近代化したように見えますが、必ずしも成功していません。

 日本は民主国家であり、民主主義が定着しているといわれています。みんな民主主義が分かっていると思い込んでいる。しかし、「民主国家とはどういうものか」と尋ねたら、総理犬臣でもはかばかしい返事はできないのではないでしようか。

 アメリカでは、有名な政治家や財界人から、学者・一般人・学生までが集まり、トクヴィルの『アメリカ民主制論』という基本図書を読みながら民主主義を考える夏期大学が、今も毎年開かれています。民主主義とは何か、まだ解明できていないと考えられているからです。日本にはそんな研究会はどこにもありません。

 民主主義というものの形は1つだけではない。西ドイツ、ベトナム、トルコ…民主主義は国ごとに違います。ところが日本は戦後アメリカから民主主義を受け入れて、それでもう分かった気になっているのです。

 日本の学者たちは、欧米の学問をそのままやっているだけ。明治維新のときに欧米の技術を取り入れましたが、技術というのはだれでも覚えれば使えるものです。しかし、人間の生き方は簡単に取り入れられません。日本で哲学をやっている人は、日本人の哲学をやっていない。カントやへ一ゲルなど哲学者の研究はしていても、日本人がどう生きるかを考える哲学はやっていないのです。

 「教養」という言葉があります。教養というと、知識が豊富なことと結びつけて考えられがちですが、それならコンピュータで代替できますよね。本当の教養とは、知識の問題ではなくて、「社会とのかかわりの中でどうやって生きるかを自分で考えること」。西洋の学問知識をどれだけ蓄えるのかではなく、日本の社会でどう生きるかを考えることが、私たちにとっての教養なのです。

 サラリーマンとして人生を送り、定年間際になったときに、「自分の一生は何だったんだろうか」と考えるでしょう。退職金があって孫もいるから十分だ、というだけでなく、やはり「自分の一生はこういうものだった」といえる何かがほしい。それが人間の"生きがい"というものです。それを探るための助けとして、学問や教養というものはだれにとっても役立つのではないかと思います。

 日本において生きることを考えるとき、忘れてならないのは、個人と社会の間に「世間」というものがあること。学者には学者の世間、サラリーマンにはサラリーマンの世間があり、個人はそれぞれ自分の属する世間に依存しながら、世間の常識に逆らわぬように生きています。政治家の派閥などは世間の典型です。

 欧米のような自立した個人は、日本の近代化の中でついに成立しなかった。西洋から取り入れられなかった部分です。それなのに、「自立した個人がいる」という建前で日本の教育も学問も行われてきました。人権や自己責任といった概念が根付かないのもそのためです。

 だから、日本人は世間というものをもっと研究しなければならない。しかし、私が世間の話をすると、学者はみんな嫌がります。欧米風の教育を受けていますから、世間という存在は日本の恥だと思っているんですね。学者の世界なんて世間そのものなのに、それを見ようとせず、ヨーロッパの学問ばかりやっている。私が世間のことを話しても、批判はしない。無視するだけ。日本の学問の、もっといえば日本社会の、一番の問題はここにあります。

 学問とは、私たちが短い人生をいかによく生きるかを探求するもの。生き方を考えるためのものです。日本人は世間を克服し、欧米追随を脱して、自分たちのために役立つ真の学問、真の教養を手に入れていかなければなりません。

ヨーロッパ中世史の長年にわたる研究の中から、氏独自の「世間」論が生まれた。「ネット時代にも世間はなくならないでしょうね」と、氏は世間の根強さを指摘する。


 以上、BUSINESS 2006.8より



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