« 反戦な家づくりさんの「反戦 ⇔ 一億総懺悔」の軸を入れてマトリクス図を描いてみました。 | トップページ | 「私がやったのは地雷処理のようなもの」小池元防衛相、って、臨時国会欠席し媚米訪米したマダム寿司が浮上なら漫画だネ。(笑) »

2007年11月28日 (水)

戦争って、侵略戦争もあるが解放戦争ってのもあるよネ。TVで護憲とか平和と言うと「戦争はとにかく嫌です」みたいなのが、。

 良く出るのだが、あれって欺瞞だと思う。マスゴミってのは読売系列でさえ8月15日前後とかになると、「戦争はとにかく嫌です」みたいなインタビューを良く出すけれど、あれって思考停止、深く考えさせないためのマスゴミ許容範囲の言説なんだろう。

 護憲派の中には、そんなマスゴミ許容範囲の言説に安住している人が多いけれど、そのままだと最後は馬鹿にされ鼻でせせら笑われ押し流されてしまうと思うよ。

 「軍事力による国際貢献ってすべて悪なの」、いやそもそも「軍って(ぶっちゃけて言えば要するに暴力装置だ)、なんでもかんでも悪なの?」とそこまで考えないと素朴護憲派なんてのは全般的な老齢化とともに消えて行っちゃうと思う今日この頃なのだ。

※以下、2007年11月25日(日)東京新聞の「こちら特報部」の記事。前は「こちら特報部」の記事はWeb版でも全文読めたのだが、最近ではリードの部分しか公開せず、残りは新聞紙の方でお読みくださいと言うスタイルです。下記に「読んdeココ」でスキャン→テキストに読み取りしたのをアップしておきます。かなり読み取り間違いがありました。気がつく限りでは直しておきました。しかし、まだあるかもしれません。その時にはまた訂正します。阿修羅のコピペ投稿者へ。そういう理由があるので転載しないでネ。別にもったいぶっているのではなく、読み取り間違い⇒訂正漏れの記事が出回るのが嫌だから 


2007年11月25日(日)東京新聞の「こちら特報部」

ベトナム独立戦争 命かけた日本兵 惨めな敗北…居場所あった

1  ベトナムのグエン・ミン・チェット国家主席がきょう二十五日に初来日する。滞在中は天皇、皇后両陛下との晩さん会、福田首相夫妻との夕食会などが予定されているが、同日夕、都内のホテルでレセプションが開かれる。招待されるのは、半世紀前の対仏独立戦争に銃をとって参加した旧日本兵と遺族たちだ。ベトナム建国の功労者でありながら、歴史の陰に隠れてきた「新ベトナム人」たち。彼らは何のために命をかけて戦ったのか。「秘史」をたどる。 (坂本充孝)

 身軽な独身「骨埋める」

 「負けて惨めな日本の姿を見るのが嫌だったからですよ。悔しかったからね。でも、それだけじゃない」

 多摩川を見下ろす丘の上。東京都青梅市の自宅で加茂徳治さん(88)は、「太平洋戦争後、なぜベトナムに残ったのか」との問いかけに、歯切れよい口調で話し始めた。

3  「私たちの宿舎の周りで毎晩のように独立を祝う、ベトナム人たちのパレードがあったんだ。歓声と笑顔にわき上がってくるような力を感じた。当時は二十七歳で、結婚もしていない。どうせ身軽なものだし、ここで骨を埋めてやろうと考えたんですよ」

 陸軍中尉だった加茂さんは、南方戦線を転戦後、一九四五年八月の終戦をベトナム南部の港町ファンティエトで迎えた。武装解除して帰国を待つ間、宿舎を監視するベトナム独立同盟(ベトミン)との折衝役を命じられた。ある日、チャックという名の通訳に「ベトミンが日本人の力を求めています」と誘われた。翌日、加茂さんは白昼堂々と宿舎を後にし、指示された農村に入った。

 村には先着の日本兵が二人いた。ベトナム人の若者約三十人を集め、加茂さんを隊長に遊撃隊が組織された。銃は三丁ほどしかない。あとは竹やりや嫌が武器だった。

 まもなく日本軍に追い散らされたフランス軍がベトナムに戻ってきた。最高指導者ホー・チ・ミン氏が独立を宣言した「ベトナム民主共和国(DRV)」がフランスと戦った第一次インドシナ戦争の始まりだ。

 ベトミンに戦闘法伝授

 加茂隊も周辺の村を巡回中、フランス軍の小隊に遭遇した。「木陰からたった一丁の軽機関銃を撃ちまくって蹴散らしたんだ。翌日からどこの村に行っても英雄扱い。私の首に賞金がかかったと聞いた。でも、昼はフランス軍に支配されている村が、夜はベトミンの村だった。食料や水をくれ、かくまってくれた」

 四六年六月、ベトナム中部のクアンガイ市に初の士官学校である陸軍中学が設立されると、加茂さんは、三人の日本人将校とともに教官に任命された。副教官三人と医務官も元日本兵だった。

 「『気をつけ』『敬礼』から始まって戦闘の方法、武器の使い方など日本式を一から教え込んだ。ただ、ベトミンの幹部から『殴るのだけはやめてくれ』と言われた。それが日本軍とは違うところだった。生徒たちは、我慢強くて、どんな訓練にも決して弱音を吐かなかった。生徒と教官は寝るのも食べるのも一緒で、体当たりで教えた。心は通じ合っていたと思う」

 フランス軍の侵攻で北に追われると、ジャングルで飢渇に耐えながら実戦指導を続けた。DRV中央の軍事訓練局スタッフなど重要なポストにも就いた。陸軍中学の教え子たちは、大半が後にベトナム人民軍の上中級幹部となり、ベトナム戦争で米軍を苦しめた。

軍事、医療、地図作製に貢献 欧州への抵抗 民族的に共感

 残留の600人対仏勢力に

 べトナム独立史の調査研究を続けてきた井川一久・大阪経済法科大客員教授によると、太平洋戦争終結時にベトナムに駐留していた日本兵は約八万人。推計では、約八百人が部隊を離れ、約百人の民間人とともに現地に残留した。

 さらに、このうちの六百人が対仏独立運動の中心勢力であったベトミンの戦列に加わり、半数が戦病死した。

 彼らは「ニャット(日本)さん」 「新ベトナム人」と呼ばれて親しまれ、中隊長級の野戦部隊指揮官になった者や、軍事教練、医療、地図作製などで貢献した者もいた。八割が現地に家族を持っていた。

 彼らの活躍は一九五四年の独立戦争終結まで続いたが、その後の日中、日越関係の悪化の陰に沈むように、長い間、表舞台から遠ざけられてきた。

4  大阪市に住む杉原剛さん(86)もその一人だ。海軍の下士官で、中国の海南島に駐留していたが、四五年十一月に食料を求めてエンジンもない帆船でベトナムに向かった。途中、嵐にあって難破し、ハノイ近郊の海岸に六人の仲間と流された。ベトミンに保護され、「独立のために力を貸してくれ」と誘われた。

 「生きていられればいいと思った。あとは成り行きまかせです」

 仲間とジャングルに潜み、不発弾を拾って再生する任務を続けた。五〇年に中隊長の紹介で現地の女性と結婚、三人の男子をもうけた。独立戦争が終わった五四年、赤十字などの仲介で帰国が可能になったが、国交がないため家族を同行することはできなかった。

 後ろ髪を引かれたが、「子どもたちはベトナムが立派に育てる。心配せずに帰国しろ」という現地の人民委員の言葉を信じるしかなかった。

 帰国後は日越の懸け橋づくりに奔走。日本ベトナム友好協会の関西連合会を設立した。米国による北ベトナム爆撃が始まると、おびえる家族に思いをはせながら、反戦平和運動に没頭した。子どもたちの結婚や妻の死亡は手紙で知った。

帰国後、42年ぶり息子と再会

 九六年、経済代表団の一員で来日した長男と四十二年ぶりに再会する。長男は行政区長を務めるほど立派に成長していた。その後、「息子たちを育ててくれたベトナムへのお礼」として、資金を募り、現地に学校を建てる活動を続けている。

 「私は運命に翻弄されて二つの戦争を戦った。おかげでたくさんのことを学んだ。ひとつは侵略のための戦争。もうひとつは民族独立のための戦争だった。ベトミンはたしかに大衆の支持を得ていた。こんな軍隊があるのかと驚いた」。杉原さんは、そう語る。

 アジア解放理念忘れず

 前出の井川氏は、ベトナム残留日本人たちが独立運動に参加した動機には、「敗戦日本の将来を悲観した」 「ベトミンに好条件で誘われた」 「現地に愛人ができた」 「戦争犯罪人として裁かれるのが怖かった」などがあっただろうと推測している。

 だが、こうも話す。

5  「より深い理由として、欧州に立ち向かうベトナム人に対する民族的共感があったでしょう。敗戦と同時に日本政府が投げ捨てた『アジア解放』の理念を、彼らは身一つで守り抜こうとしたのです」

 実際に九〇年代まで現地で生き残っていた旧日本兵は、こう語ったという。「あれは大東亜戦争の続きだった。フランス軍と戦うベトナム人を見殺しにして帰国するのは、日本人として恥ずかしいと思った」

 井川氏は言う。「近代日本は、欧米帝国主義から身を守るために、欧米帝国主義を模するという矛盾を背負った。その矛盾を個人として解こうとしたのが、彼らだったのではないか」

※デスクメモ
 日本は一九四〇年の仏印進駐でベトナムを事実上の占領下に置き、太平洋戦争末期には中部以北で多くの餓死者を出した。推定で二百万人ともいう。凶作に加え、戦時政策の混乱が犠牲者を増やしたが、ベトナム人が忘れてはいない歴史の惨事の一つだ。晩さん会ではどのようなお言葉を述べられるのか。 (呂)


※関連記事

ベトナムの風に吹かれて 猪狩正男さん     聞き手 会田正宣 ちなつ
http://www.niyoniyo.net/vol25/hitolibrary/igari.htm

ベトナム秘史に生きる「日本人」シリーズ

第1回 仏印進駐の知られざる物語
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0802.php

第2回 植民地政府を解体した一夜の奇襲作戦
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0823.php

第3回 ホー・チ・ミンの軍隊で戦った日本人
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0906.php

第4回 現地校卒業生、命がけのベトナム残留
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0920.php

最終回 源流は大東亜戦争にあり──戦後日本のベトナム支援
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_1004.php

「自Endポスターバナー作戦」遂行中!

 「自Endポスターバナー作戦」2作目の「自End」の「自」が倒れるタイプ。ファイルサイズが少し大きくなります。

自End!:民主を励まし、クリンチ作戦・連立デマ謀略の自民を嗤うバナー

※雑談日記SOBA制作と明示して頂けるとうれしいです。

命落とすな、自公を落とせ!
わんばらんすさん。

政権交代は、あらゆる改革につながる本丸
村野瀬玲奈の秘書課広報室さん。

「確かな野党」から「確かな連立」へ!
らんきーブログさん。

「新聞テレビは『95%の小さな真実』の報道で『5%の大嘘』を目くらましする」
喜八ログさんのオリジナル「新聞テレビは『95%の小さな真実』を報道し『5%の大嘘』を正当化する」の「正当化する」を「目くらましする」とし、リメークしました。この場合は、漢語での簡潔な表現より、大和言葉の方がスッと腑に落ちる気がしました。

 このエントリーは、トラックバック・ピープル
いいニャ~自Endバナー 自民党政治

いいニャ~、郵政民営化凍結 郵政民営化凍結

野党共闘はいいニャ~バナー 野党共闘にトラックバックしています。(各バナーとも、クリックでスタート記事に飛びます)また政治全般自民党にもTBす。

自Endライブを表示する方法(詳細な説明)

↓政治部門でリベラル系大幅進出を確認したければクリック。

人気blogランキングバナー


|

« 反戦な家づくりさんの「反戦 ⇔ 一億総懺悔」の軸を入れてマトリクス図を描いてみました。 | トップページ | 「私がやったのは地雷処理のようなもの」小池元防衛相、って、臨時国会欠席し媚米訪米したマダム寿司が浮上なら漫画だネ。(笑) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 戦争って、侵略戦争もあるが解放戦争ってのもあるよネ。TVで護憲とか平和と言うと「戦争はとにかく嫌です」みたいなのが、。:

» オーストラリアの方向転換 [とむ丸の夢]
道路工事による片側通行で停車中、つい、前で停まっているトラックの車体に目が行きました。 「KDC」と大きくあるのはイニシャルなんだろうな、と何気なくボディーに書かれた横文字を読んで少々複雑な気分。 目が点になる... [続きを読む]

受信: 2007年11月28日 (水) 11時27分

» 不気味な静けさ&おとなしさ、&・・ [いわいわブレーク]
まず、飯大蔵 さんのところで書いたコメントに、お返事を頂きました。 三介 さん あなたの論理に2点問題があります。 「解釈改憲をズルズルと続ける危険」に対し、「解釈改憲」と同じ方向へ改憲する事はおかしいです。 その危険に対する対応はおかしな解釈が出来ない条文..... [続きを読む]

受信: 2007年11月28日 (水) 12時12分

» 破滅へのカウントダウン(Countdown To Extinction) [或る浪人の手記]
 毎度毎度の事ながら、本当に、我が国のマスゴミというのは糞の役にも立たない存在です。 中国のガソリンスタンドに長い長いクルマの行列 ガソリンを奪いあって、ついに殺人事件、暴動も発生している  北京は平安であ... [続きを読む]

受信: 2007年11月29日 (木) 00時23分

» 守屋サン、やっぱつかまったw&古い週刊誌から、コイズミチルドレン負の遺産・・・ [憧れの風]
はい、守屋サン逮捕されました(爆 ニュースはもぉ あの殺人事件と並んで ずーっとトップだったなぁ。 福田サンは 遺憾で残念とか 言うたらしいなぁ。 「遺憾で残念」と首相―前防衛次官逮捕 (時事通信) 記事写真 [拡大写真へ] 「遺憾で残念」と首相―前防衛次官逮捕【時事通..... [続きを読む]

受信: 2007年11月29日 (木) 02時08分

» 額賀アリバイ&喚問で与野党が攻防。民主に覚悟はあるのか?+岡ちゃん [日本がアブナイ!]
【何か政治ブログ全体のクリック数が減少している今日この頃。今なら 1万Pあれば、ベスト10にはいれる状況に。(・・) 欲を張ってはいけない けど、リベ平ブログ躍進のチャンスかも? (@_@。 皆さまのアツい ご支援で、当ブログ&リベ平ブログを押し上げて下さいませ。m(__)m】 最新の記事一覧は、コチラに。  何かサッカーの日本代表の新監督が、岡ちゃんこと岡田武史氏にほぼ 決定したのだとか。(**) <あとオシム氏に反応が見られて、意識が回復する兆しが見られるとの 報... [続きを読む]

受信: 2007年11月29日 (木) 07時15分

» 議会解散運動は解散させることが目的じゃない。 [とくらBlog]
 岩国市長のリコールを求める運動を始めた団体の配布したチラシについて恥ずかしげもなく、よくこんなチラシがまけるものだと怒りのTBをくださっていたA PLACE IN THE SUNさんと同様、仕事に追われ、書けないままズルズルと時間だけがたってしまっています。が、以前、「岩国市民ではないので、軽々しく書けません。書きかけていましたが、別に投稿することにします。」と書いていた議会解散について・・・、迷いましたが、書いておくことにします。  この週末、岩国でいろんな方のご意見を聞くことができました... [続きを読む]

受信: 2007年11月29日 (木) 09時43分

» 反戦と抵抗の祭りー生き延びる [大津留公彦のブログ2]
8時間半に及ぶ長い集会に参加した。 しかも間に表参道・原宿をサウンドデモというトラックの荷台で行うロックコンサートと共に行うデモまで入っていた。 雨宮処凛さんと赤木智弘さんの話を聞く為に出掛けたがそれ以外にもなかなか刺激を受ける事の多い会だった。... [続きを読む]

受信: 2007年12月 2日 (日) 12時22分

« 反戦な家づくりさんの「反戦 ⇔ 一億総懺悔」の軸を入れてマトリクス図を描いてみました。 | トップページ | 「私がやったのは地雷処理のようなもの」小池元防衛相、って、臨時国会欠席し媚米訪米したマダム寿司が浮上なら漫画だネ。(笑) »