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2012年3月11日 (日)

震災1周年追悼式に心臓手術後おして出席された陛下。そのお言葉から原発関連を勝手に編集削除し報じなかったNHKの欺瞞。

 NHKのWebニュースまでが天皇陛下のお言葉から原発関係を勝手に削除編集した事についての段落は、元動画とテキストをご紹介した後ろのこちら(「ニュース7」がお言葉を削除編集して全国に流したmp3録音紹介段落はその次のこちら)←頁内ジャンプ。

 

天皇陛下 東日本大震災追悼式典でのお言葉(12/03/11)
ANNnewsCH
http://youtu.be/Vp1QwXXjPqs

(宮内庁から)

東日本大震災1周年追悼式
平成24年3月11日(日)(国立劇場)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h24e.html#D0311
魚拓

<英文>へ

東日本大震災から1周年,ここに一同と共に,震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

1年前の今日,思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ,ほぼ2万に及ぶ死者,行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め,危険を顧みず,人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。

さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより,危険な区域に住む人々は住み慣れた,そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています

この度の大震災に当たっては,国や地方公共団体の関係者や,多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ,被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で,避難者の心を和ませ,未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に,被災者や被災地のために働いてきた人々,また,原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を,深くねぎらいたく思います。

また,諸外国の救助隊を始め,多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも,日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆(きずな)を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ,被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく,子孫に伝え,防災に対する心掛けを育み,安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

今後,人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。

 

(宮内庁)

Address by His Majesty the Emperor on the Occasion of the Memorial Service to Commemorate the First Anniversary of the Great East Japan Earthquake (March 11, 2012)
http://www.kunaicho.go.jp/e-okotoba/01/address/okotoba-h24e.html#0311
魚拓

<Japanese>

As we commemorate the first anniversary of the Great East Japan Earthquake, together with the people gathered here today, I would like to express my deepest condolences for the many people who lost their lives in this earthquake.

A year ago today, Japan was struck by an unexpectedly huge earthquake and tsunami, which resulted in almost twenty thousand dead and missing persons. We must not forget that this included many people, including fire fighters, who lost their lives as they devoted themselves to relief operations and disaster control without regard for their own safety.

As this earthquake and tsunami caused the nuclear power plant accident, those living in areas designated as the danger zone lost their homes and livelihoods and had to leave the places they used to live. In order for them to live there again safely, we have to overcome the problem of radioactive contamination, which is a formidable task.

After the earthquake, many people, including members of the Government and the local authorities as well as many volunteers, went to the afflicted areas and carried out various efforts to support the afflicted people. I am sure their activities helped to comfort the evacuees living under harsh conditions and encouraged them to think positively about the future. I would like to take this opportunity to express my deepest gratitude to the people who have worked for the afflicted people and afflicted regions and those who have been trying to contain the damage from the nuclear power plant accident.

Many people overseas responded to the disaster by sending us relief teams and offering us help in various ways. In many cables of sympathy I received from the foreign heads of state, they commented that they were truly impressed by how, under severe conditions, the afflicted people were helping each other and working towards reconstruction with a strong sense of solidarity. I am deeply grateful to the kindnesses shown by the people around the world.

It is expected that many difficult challenges lie ahead in the reconstruction of the afflicted areas. It is my hope that the people's hearts will always be with the afflicted people and the afflicted regions, and that everyone will continue to work towards improving the conditions of those areas. It is important for us to never forget this disaster and hand down the lessons we learned to future generations, and foster the proper attitude towards disaster prevention, with the aim of making our country a safer place.

In closing, I would like to express my hope that Japan will become once again a country where people can live with a sense of security and again offer my sincere condolences for all those who lost their lives in the Great East Japan Earthquake.

 

 NHKは最初の下記二つのニュースで、陛下が言及した「原発事故について」と「放射能の問題」について全然ふれていません。しかも夜のゴールデンタイム「ニュース7」ではその部分を編集カットまでしてます(下の記事で「ニュース7」mp3録音など

天皇陛下“たゆみなく努力を”
3月11日 15時36分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120311/k10013638651000.html ←リンク切れ
魚拓

K10036386511_1203111603_1203131415_

天皇陛下は、皇后さまと共に東日本大震災の犠牲者の追悼式に出席し、「国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう、たゆみなく努力を続けていくよう期待しています」と述べられました。

追悼式では、地震が発生した午後2時46分に黙とうが行われたあと、天皇陛下がおことばを述べられました。
天皇陛下は、冒頭、「震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します」と述べたうえで、救助や防災の活動中に命を落とした人たちが多くいたことに触れられました。
また、被災者を支援してきた大勢のボランティアや原発事故の対応にあたってきた人たちをねぎらったうえで、世界各国から寄せられた支援への感謝の気持ちを表されました。
そして、「被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう、たゆみなく努力を続けていくよう期待しています。この大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心がけを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います」と述べられました。

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・ 天皇陛下のおことば(全文) (3月11日)
・ 天皇陛下 時間短縮し追悼式に (3月11日)
・ 天皇陛下 震災追悼式に出席へ (3月9日)

 

政府主催の追悼式 祈りささげる
3月11日 18時8分 動画あり
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120311/t10013638411000.html ←リンク切れ
魚拓

東日本大震災から1年となる11日、政府主催の「追悼式」が東京で開かれ、天皇皇后両陛下、野田総理大臣らが出席し、犠牲者に追悼の祈りをささげました。

追悼式は、11日午後、東京の国立劇場で開かれ、天皇皇后両陛下、野田総理大臣、遺族の代表らおよそ1200人が出席しました。
式では、国歌を斉唱したあと、地震が発生した午後2時46分に出席者全員が黙とうを行い、犠牲者に追悼の祈りをささげました。
続いて、野田総理大臣が「今もなお、多くの方々が不自由な生活を余儀なくされています。生まれ育ったふるさとを、より安全で住みよい街として再生させようとする被災地の取り組みに最大限の支援を行ってまいります。福島を必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くします」と式辞を述べました。
天皇陛下は「被災地の今後の復興の道のりには、多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう、たゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そして、この大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います」と、おことばを述べられました。
追悼式では、岩手、宮城、福島の遺族の代表3人があいさつし、このうち、震災の1週間前に結婚式を挙げた長男らを失った宮城県の奥田江利子さんは「生きていくことが何なのか考えることさえできない日々が続きましたが、息子の忘れ形見の初孫が去年の7月に生まれ、孫の成長が生きる希望につながっています。被災地を支えて下さった日本全国、世界各国の皆さんに心から感謝し、その恩に報いるために、私たち一人一人がしっかりと前を向いて生きていきたいです」と述べました。
式では、このあと外国の代表ら参列者が献花を行い、犠牲者の冥福を祈りました。

▽ 天皇陛下のおことば(全文) (3月11日)

 

 NHKは「一応紹介した」とアリバイづくりの様な下記Web記事で、全文を出してますが、その後7PM「ニュース7」の時に、天皇陛下が言及した「原発事故について」と「放射能の問題」については編集でカットまでしてます(証拠の録音。最初から7分25秒ほどをmp3で。3分45秒からの所が追悼式典での陛下のお言葉部分ですが、その3分45秒からのmp3はこちら。なお元の陛下のお言葉は最初のANN動画で分かりますが、念の為にANN動画音声をmp3録音)。下記全文記事中、黒大文字の所だけをNHKは「ニュース7」で放送しました。赤文字の、「原発事故について」と「放射能の問題について」の所は他の部分と含め編集カットしてます。東日本大震災1周年追悼式での陛下のお言葉は全国民へあてられたもの。しかも陛下は心臓手術後に無理してまで追悼式に出席なさっています。こんなに重要な事をきちんと報道出来ないとはどう言うことか。ANNニュースが放送したのに、NHKはなぜ放送しなかった。原子力村からの圧力があったなんてのはそれこそ理由にならないです(笑)。NHKは公営放送の看板を下ろした方がいい。

天皇陛下のおことば(全文)
3月11日 17時0分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120311/k10013639611000.htmlリンク切れ 
魚拓
Internet Archive

【天皇陛下のおことば(全文)】
東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します
1年前の今日、思いもがけない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。
その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。
さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。
再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています

この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。
このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。
この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。
また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。
外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。
世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。
国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう、たゆみなく努力を続けていくよう期待しています。
そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います

今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。

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天皇陛下「安心して生活できる国土を」、追悼式でお言葉
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M0P97I6TTDS101.html
魚拓

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Japanese Emperor Akihito (R) and Empress Michiko pay their respects before an altar during a memorial service for the victims of the march 11, 2011 earthquake, in Tokyo on March 11, 2012. Photograph: Yoshikazu Tsuno/AFP/Getty Images

  3月11日(ブルームバーグ):3週間前に心臓手術を受けられたばかりの天皇陛下は11日午後、政府主催の東日本大震災1周年追悼式に皇后陛下とともに出席、震災の犠牲者に対して深い哀悼の意を表されるとともに、今後「人々が安心して生活できる国土」の構築へ期待を示された。

天皇陛下はこの中で、犠牲者の中に消防団員ら救助、防災活動中に亡くなった人が多く含まれていたことを忘れることができないと語られた。国や地方自治体、ボランティアらの支援が避難者の未来に向う力を引き立てたとも述べ、世界各地からの支援にも深い感謝を表明された。

東京電力・福島第一原子力発電所事故にも触れ、避難した人々が住み慣れた地域に安全に暮らすためには、「放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっている」と語り、原発事故対応に働いてきた人々の尽力を深くねぎらう気持ちも示された。

宮内庁によると、天皇陛下は2月18日に、東大医学部付属病院で心臓の冠動脈パイパス手術を受けられ、3月4日に退院。その後、胸の水がやや増加し息切れなどの自覚症状が出たため、7日に水を抜く処置を受けられていた。

追悼式は東京・千代田区の国立劇場で行われ、野田佳彦首相ら政府関係者のほか、震災犠牲者の家族、海外の招待者らが出席。NHKテレビが中継した。

記事についての記者への問い合わせ先:東京 谷合謙三 ktaniai@bloomberg.net

記事についてのエディターへの問い合わせ先:Teo Chian Wei cwteo@bloomberg.net
更新日時: 2012/03/11 16:17 JST

 

東日本大震災:1周年追悼式 言葉全文
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20120312ddm010040037000c.html
魚拓

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東日本大震災1周年追悼式に臨む天皇、皇后両陛下=11日(代表撮影)

 東京都千代田区の国立劇場で11日行われた「東日本大震災1周年追悼式」で述べられた式辞や遺族の言葉全文は以下の通り。
 ◇天皇陛下のお言葉

 東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

 1年前の今日(こんにち)、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員をはじめ、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。

 さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。

 この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のためにさまざまな支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。

 また、諸外国の救助隊をはじめ、多くの人々が被災者のためさまざまに心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

 被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく子孫に伝え防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

 今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。


 ◇野田佳彦首相の式辞

 本日ここに、天皇、皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、東日本大震災1周年追悼式を挙行するに当たり、政府を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

 多くの尊い命が一時(いちどき)に失われ、広範な国土に甚大な被害をもたらした東日本大震災の発生から、1年の歳月を経ました。

 亡くなられた方々の無念さ、最愛の家族を失われたご遺族の皆様の深い悲しみに思いを致しますと、悲痛の念に堪えません。ここに衷心より哀悼の意を表します。また、今もなお行方の分からない方々のご家族をはじめ、被災された全ての方々に、心からお見舞いを申し上げます。

 亡くなられた方々の御霊に報い、そのご遺志を継いでいくためにも、本日、ここに三つのことをお誓いいたします。

 一つ目は、被災地の復興を一日も早く成し遂げることです。

 今もなお、多くの方々が、不自由な生活を余儀なくされています。そうした皆様の生活の再建を進めるとともに生まれ育ったふるさとをより安全で住みよい街として再生させようとする被災地の取り組みに最大限の支援を行ってまいります。

 原発事故との戦いは続いています。福島を必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くします。

 二つ目は、震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくことです。

 自然災害が頻発する日本列島に生きる私たちは、大震災で得られた教訓や知見を、後世に伝承していかなければなりません。今般の教訓を踏まえた全国的な災害対策の強化を早急に進めてまいります。

 三つ目は、私たちを取り結ぶ「助け合い」と「感謝」の心を忘れないことです。

 被災地の復興には、これからも、震災発生直後と同様に、被災地以外の方々の支えが欠かせません。また、海外からの温かい支援に「恩返し」するためにも、国際社会への積極的な貢献に努めていかなければなりません。

 我が国の繁栄を導いた先人たちは、危機のたびに、よりたくましく立ち上がってきました。私たちは、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携えて、「復興を通じた日本の再生」という歴史的な使命を果たしてまいります。

 結びに、改めて、永遠に御霊の安らかならんことをお祈り申し上げるとともに、ご遺族の皆様のご平安を切に祈念して、私の式辞といたします。


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東日本大震災1周年追悼式で、遺族を代表して言葉を述べた(右から)岩手県の川口博美さん、宮城県の奥田江利子さん、福島県の村岡美空さん=東京都千代田区の国立劇場で11日午後3時35分(代表撮影)

 ◇岩手県遺族代表・川口博美さん(63)

 本日ここに、東日本大震災により、尊い命を天に召された御霊(みたま)の追悼式が執り行われるにあたり謹んで哀悼の言葉をささげます。

 「翔也4歳になったね。お誕生日おめでとう」と、震災前の2月18日、最愛の孫、翔也の誕生日のお祝いをして家族全員が満ち足りた、本当に幸せな時間を過ごしました。

 翔也の笑顔に家族全員が癒やされ、元気付けられ、いつも家族の中心にいてくれました。

 あの日からわずか22日後、津波の犠牲になったのです。家族全員で慈しみ、育んできた、生まれてまだ4歳しかたっていない孫の命をあの津波が奪っていったのです。

 震災のあの日、私は50キロ離れた大船渡市にいました。道路はがれきで埋まり、泥まみれになって歩いて自宅に向かいたどり着いたのは翌日の昼過ぎ。自宅は流され、津波は私を産み育ててくれた母や、人生を共に歩むことを誓ったかけがえのない大切な妻の命までも奪っていきました。

 私の住んでいる大槌は、津波のあと、火災が至るところで発生したため、焼け焦げたがれきや車や家の壁が、街全体が真っ黒に覆われた光景が目に焼き付いて離れません。

 この震災によって、私の住んでいる集落でも90名を超える尊い生命が奪われ、いまだに42名が行方不明で、小さいころから一緒に遊んだ仲間、よく面倒をみてくれた近所のおばちゃん、親戚の人たち、集落の1割もの方が犠牲となりました。

 天災とは言うものの、この世には神も仏も存在しないものだと今もあの時を思い出すと涙があふれてしまいます。この震災で犠牲となられた皆様の悔しさと無念さ、残された家族の悲しみを思うと言葉になりません。

 ただ、悲しんでばかりもいられません。私たち遺族の周りには、前を向いて、復興に向けて、協力してくれる仲間が居ます。町民の3倍以上となる5万人のボランティアが、私たちの街の復旧・復興のために駆け付けてくれたように。

 私たちは、この震災の教訓を風化させることなく、後世に語り継ぎ、時間はかかるとは思いますが、一歩ずつ古里の復興に向け、まい進することを御霊にお誓いいたします。

 最後に、東日本大震災で犠牲になられた皆様の御霊のやすらかなご冥福をお祈りします。


 ◇宮城県遺族代表・奥田江利子さん(47)

 「悲しみを抱いて」

 東日本大震災では大勢の人が亡くなりました。そして、いとおしい人を思い続けるたくさんの人が残されました。

 私は津波で甚大な被害を受けた、宮城県石巻市北上町に2人の子供と両親とで住んでいました。

 震災の1週間前、23歳だった長男、智史の結婚式でした。息子夫婦が入籍の日に選んだのは3月11日でした。2人は我が子の誕生を楽しみに、人生で一番幸せな時を迎えていました。私たち家族も、その将来に向けてささやかな幸福を感じておりました。震災の日も、いつもと変わらない朝を迎えて、変わらず明日が来ると……来ないなんて思いもしませんでした。

 地震の後、息子は家族の身を案じ、妹と祖父母が身を寄せていた近くの指定避難所に車で向かったそうです。

 津波が海から数メートルの避難所を襲い、たくさんの尊い命をもぎ取り奪っていきました。

 窓からは、迫りくる波が見えただろうに、「どんなに恐ろしい思いをしたか」。それを思うと、胸が締め付けられます。

 ただただかわいそうでかわいそうで、いたたまれません。

 次の日、避難所から100メートルの自宅のあった場所近くで息子は見つかりました。一緒にいたはずの娘は家族の一番最後、1カ月後にやっと見つかりました。

 妹をその腕の中で守っていたかのように手を組んで水たまりに横たわっていました。「おかあ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで、おまえ頑張ったな。偉いぞ。「みんなと一緒にいてやったんだよね」。何度も話しかけました。

 冷たくなった夫にすがって泣き続ける嫁。こんな残酷な思いをさせてしまって本当に申し訳なくて済まなくて、残されたこの子らがふびんでなりません。

 身重の妻を残して逝った息子の気持ちを思うと、どんなに無念だったか。この母が代わらせてもらいたかったです。

 見渡す限りの惨状に地獄はここだと思いました。

 私の大切な家族。

 強くて厳しかったけれども、芯の温かだった母。

 一家を辛抱強く支えてくれた父。

 年の離れた妹を心底可愛がり父親代わりをしてくれた息子。

 心優しく、その笑顔が我が家の明かりだった娘。

 14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり私の生きがいでした。

 受け止めがたい現実、やり場のない怒りと悲しみ、そして限りのない絶望。

 最愛の人を失ったというのに自分が生きているという悲しみ。「生きることがつらい」と思う申し訳ない気持ち。生きている事が何なのか、生きていく事が何なのかを考えることさえできない日々が続きました。

 愛する人たちを思う気持ちがある限り私たちの悲しみが消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。

 だから、もっと強くなるしかありません。涙を越えて強くなるしかありません。

 今、私はこう思うようにしています。「子供たちが望む母でいよう」「これでいいだろうか」「こんなときに両親はなんと言うだろう」

 そう思う事で亡くした家族と、「一緒に暮らしている」と感じていたいからです。

 絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました。

 忘れ形見の初孫が7月に生まれ、元気に育っています。

 その孫の成長が生きる希望へとつながっています。

 最後に被災地の私たちを支えてくださった多くの皆さん、日本全国、世界各国の皆様に心から感謝を申しあげます。

 皆さんからの温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくださいました。

 だから今日まで過ごしてこられました。

 その恩に報いるには、私たち一人一人がしっかりと前を向いて生きていくことだと、そう思っています。さしのべてもらったその手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。

 本当にありがとうございます。


 ◇福島県遺族代表・村岡美空(みく)さん(14)

 福島県浜通りの北部に位置し、重要無形民俗文化財に指定されている相馬野馬追の土地、相馬で私は育ちました。

 家の近くには、太平洋が広がり、漁港ではホッキ貝やカレイなどが水揚げされ、日本百景の一つに数えられている松川浦がありました。

 2011年3月11日、あの日、この光景と私たちの生活が一変しました。

 午後2時46分、突然、今までに感じたことのない大きな揺れが何度も襲ってきました。私は、津波を心配し、慌てて高台にある小学校へ車で避難しました。

 私の父は、地元の消防団員です。高台の小学校に着いたとき、聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、消防団活動に入ると言い残し、急いで走り去りました。

 高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。

 それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。高台から見える光景は、一瞬にして変わり果て、住宅地は、海の底に沈んでいました。

 現実とは思えない、何と表現したらいいのかわからない光景に私は、ただ、ぼうぜんと立っているだけでした。

 避難先の小学校では、食べ物もなく、不安の中、寒くて暗い夜を過ごしました。家族と離れ離れになり捜しまわる人もたくさんいました。

 私も父と連絡が取れず心配でたまりませんでした。

 数日がたったある日、父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。人の役に立つ事が好きで、優しかった父。学校行事も積極的に参加し、小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。私はこんな父が大好きでした。

 捜索にあたっていただいた皆さん、父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、ありがとうございました。

 1年がたっても、いまだ行方不明の方がいることに心が痛みます。

 天皇、皇后両陛下はじめ、たくさんの方々のお見舞いや励まし、ご支援ありがとうございます。

 現在、私は、神奈川県の中学校に通っています。小さな頃からいつも一緒だった友達と離れ離れになり寂しいですが、こちらの中学校でも新しい友達ができました。勉強は、ボランティアの大学生の方々にも教えていただき、頑張っています。

 将来は、少しでも人の役に立つ仕事に就きたいと思っています。

 また、復興に向けて皆で力を合わせ、頑張っていきたいと思います。

毎日新聞 2012年3月12日 東京朝刊

 

〈東日本大震災追悼式〉天皇陛下のおことば全文
http://www.asahi.com/national/update/0311/TKY201203110147.html
魚拓

Tky201203110235 東日本大震災1周年追悼式で、お言葉を述べる天皇陛下=11日午後2時56分、東京都千代田区の国立劇場、代表撮影

 追悼式での天皇陛下のおことばは次の通り。

 東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

 1年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。

 さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。

 この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。

 また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

 被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

 今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。

 

東日本大震災1年 追悼式で1200人黙祷
http://www.asahi.com/national/update/0311/TKY201203110143.html
魚拓

Tky201203110171
東日本大震災1周年追悼式に臨む天皇、皇后両陛下=11日午後、東京都千代田区の国立劇場、代表撮影

 政府主催の「東日本大震災1周年追悼式」が11日午後、東京都千代田区の国立劇場であり、天皇、皇后両陛下、野田佳彦首相、各地で被災した遺族代表ら国内外の約1200人が出席した。地震発生から1年の午後2時46分に全員で黙祷(もくとう)。首相の式辞に続き、天皇陛下が「おことば」を述べた。

 天皇陛下は「被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう期待しています」と述べた。野田首相は「被災地の復興を一日も早く成し遂げる」としたうえで、原発事故が起きた福島県について「必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くす」と話した。

 宮内庁によると、2月に冠動脈バイパス手術を受けた天皇陛下は追悼式への出席を強く望み、今月7日には胸の水を抜く治療を受けて式に臨んだ。陛下の体調に配慮して、出席時間は当初予定の半分の約20分に短縮された。

 その後、岩手、宮城、福島各県の遺族代表が追悼の言葉を述べた。

     ◇

 岩手、宮城、福島の3県の追悼式では、知事がそれぞれ復興を誓った。

 岩手県の達増拓也知事は「岩手の沿岸を、必ずよみがえらせる」と強調。宮城県の村井嘉浩知事は「ふるさと宮城を次の世代に引き継いでいくため、復興に邁進(まいしん)する」と述べた。福島県の佐藤雄平知事は「困難を克服し、豊かで美しい福島県を取り戻せると確信する」と訴えた。

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〈東日本大震災追悼式〉岩手県遺族代表のことば
http://www.asahi.com/national/update/0311/TKY201203110162.html
魚拓

 東日本大震災1周年追悼式に出席した岩手県遺族代表・川口博美さんの「ことば」は次の通り。

     ◇

 本日ここに、東日本大震災により、尊い命を天に召された御霊(みたま)の追悼式が執り行われるにあたり謹んで哀悼の言葉をささげます。

 「翔也4歳になったね。お誕生日おめでとう」と、震災前の2月の18日、最愛の孫、翔也の誕生日のお祝いをして家族全員が満ち足りた、本当に幸せな時間を過ごしました。

 翔也の笑顔に家族全員が癒やされ、元気付けられ、いつも家族の中心にいてくれました。あの日からわずか22日後、津波の犠牲になったのです。家族全員で慈しみ、育んできた、生まれてまだ4歳しかたっていない孫の命をあの津波が奪っていったのです。

 震災のあの日、私は50キロ離れた大船渡市にいました。道路はがれきで埋まり、泥まみれになって歩いて自宅に向かい、たどり着いたのは翌日の昼過ぎ。自宅は流され、津波は私を生み育ててくれた母や、人生を共に歩むことを誓ったかけがえのない大切な妻の命までも奪っていきました。

 私の住んでいる大槌は、津波のあと、火災が至るところで発生したため、焼け焦げたがれきや車や家の壁が、街全体が真っ黒に覆われた光景が目に焼き付いて離れません。

 この震災によって、私の住んでいる集落でも90名を超える尊い生命が奪われ、いまだに42名が行方不明で、小さい頃から一緒に遊んだ仲間、よく面倒を見てくれた近所のおばちゃん、親戚の人たち、集落の1割もの方が犠牲となりました。

 天災とは言うものの、この世には神も仏も存在しないものだと今もあの時を思い出すと涙があふれてしまいます。この震災で犠牲となられた皆様の悔しさと無念さ、残された家族の悲しみを思うと言葉になりません。

 ただ、悲しんでばかりもいられません。私たち遺族の周りには、前を向いて、復興に向けて、協力してくれる仲間が居ます。町民の3倍以上となる5万人のボランティアが、私たちの街の復旧・復興のために駆け付けてくれたように。

 私たちは、この震災の教訓を風化させることなく、後世に語り継ぎ、時間はかかるとは思いますが、一歩ずつふるさとの復興に向け、邁進(まいしん)することを御霊にお誓いいたします。

 最後に、東日本大震災で犠牲になられた皆様の御霊のやすらかなご冥福をお祈りします。

 

〈東日本大震災追悼式〉宮城県遺族代表のことば
http://www.asahi.com/national/update/0311/TKY201203110163.html
魚拓

 東日本大震災1周年追悼式に参加した宮城県遺族代表・奥田江利子さんの「ことば」は次の通り。

     ◇

 「悲しみを抱いて」

 東日本大震災では大勢の人が亡くなりました。そして、いとおしい人を思い続けるたくさんの人が残されました。

 私は津波で甚大な被害を受けた宮城県石巻市北上町に、2人の子どもと両親とで住んでいました。

 震災の1週間前、23歳だった長男智史の結婚式でした。息子夫婦が入籍の日に選んだのは3月11日でした。2人は我が子の誕生を楽しみに、人生で一番幸せな時を迎えていました。私たち家族も、その将来に向けてささやかな幸福を感じておりました。震災の日も、いつもと変わらない朝を迎えて、変わらず明日が来る来ないなんて思いもしませんでした。

 地震の後、息子は家族の身を案じ、妹と祖父母が身を寄せていた近くの指定避難所に車で向かったそうです。

 津波が海から数メートルの避難所を襲い、たくさんの尊い命をもぎ取り、奪っていきました。

 窓からは、迫りくる波が見えただろうに、どんなに恐ろしい思いをしたか。それを思うと、胸が締め付けられます。

 ただただかわいそうでかわいそうで、いたたまれません。

 次の日、避難所から100メートルの自宅のあった場所近くで息子は見つかりました。一緒にいたはずの娘は、家族の一番最後、1カ月後にやっと見つかりました。

 妹をその腕の中で守っていたかのように手を組んで水たまりに横たわっていました。「おかあ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで。おまえ頑張ったな。偉いぞ。みんなと一緒にいてやったんだよね。何度もそう話しかけました。

 冷たくなった夫にすがって泣き続ける嫁。こんな残酷な思いをさせてしまって本当に申し訳なくてすまなくて、残されたこの子らがふびんでなりません。

 身重の妻を残して逝った息子の気持ちを思うと、どんなに無念だったか、この母が代わらせてもらいたかったです。

 見渡す限りの惨状に地獄はここだと思いました。

 私の大切な家族。

 強くて厳しかったけれども、芯の温かだった母。

 一家を辛抱強く支えてくれた父。

 年の離れた妹を心底かわいがり父親代わりをしてくれた息子。

 心優しく、その笑顔が我が家の明かりだった娘。

 14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり私の生きがいでした。

 受けとめがたい現実、やり場のない怒りと悲しみ、そして限りのない絶望。

 最愛の人を失ったというのに自分が生きているという悲しみ。「生きることがつらい」。そう思う申し訳ない気持ち。生きていることが何なのか、生きていくことが何なのかを考えることさえできない日々が続きました。

 愛する人たちを思う気持ちがある限り私たちの悲しみが消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。

 だから、もっと強くなるしかありません。涙を超えて、強くなるしかありません。

 今、私はこう思うようにしています。「子どもたちが望む母でいよう」「これでいいだろうか」「こんなときに両親はなんと言うだろう」

 そう思うことで、「亡くした家族と一緒に暮らしている」。そう感じていたいからです。

 絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました。

 忘れ形見の初孫が7月に生まれ、元気に育っています。

 その孫の成長が生きる希望へとつながっています。

 最後に、被災地の私たちを支えて下さった多くの皆さん、日本全国、世界各国の皆様に心から感謝を申し上げます。

 皆様からの温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくださいました。

 だから今日までこうして過ごしてこれました。

 その恩に報いるには、私たち一人一人がしっかりと前を向いて生きていくことだと、そう思っています。差し伸べてもらったその手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。

 本当にありがとうございます。

 

〈東日本大震災追悼式〉福島県遺族代表のことば
http://www.asahi.com/national/update/0311/TKY201203110164.html
魚拓

 東日本大震災1周年追悼式に参加した福島県遺族代表・村岡美空さんの「ことば」は次の通り。

     ◇

 福島県浜通りの北部に位置し、重要無形民俗文化財に指定されている相馬野馬追の土地、相馬で私は育ちました。

 家の近くには、太平洋が広がり、漁港ではホッキ貝やカレイなどが水揚げされ、日本百景の一つに数えられている松川浦がありました。

 2011年3月11日、あの日、この光景と私たちの生活が一変しました。

 午後2時46分、突然、今までに感じたことのない大きな揺れが何度も襲ってきました。私は、津波を心配し、慌てて高台にある小学校へ車で避難しました。

 私の父は、地元の消防団員です。高台の小学校に着いたとき、聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、消防団活動に入ると言い残し、急いで走り去りました。

 高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。

 それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。高台から見える光景は、一瞬にして変わり果て、住宅地は、海の底に沈んでいました。

 現実とは思えない、何と表現したらいいのかわからない光景に、私は、ただ、ぼうぜんと立っているだけでした。

 避難先の小学校では、食べ物もなく、不安の中、寒くて暗い夜を過ごしました。家族と離れ離れになり捜しまわる人もたくさんいました。

 私も父と連絡が取れず心配でたまりませんでした。

 数日が経ったある日、父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。人の役に立つことが好きで、優しかった父。学校行事も積極的に参加し、小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。私はこんな父が大好きでした。

 捜索にあたっていただいた皆さん、父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、ありがとうございました。

 1年が経っても、いまだ行方不明の方がいることに心が痛みます。

 天皇皇后両陛下はじめ、たくさんの方々のお見舞いや励まし、ご支援ありがとうございます。

 現在、私は、神奈川県の中学校に通っています。小さな頃からいつも一緒だった友達と離れ離れになり寂しいですが、こちらの中学校でも新しい友達ができました。勉強は、ボランティアの大学生の方々に教えていただき、頑張っています。

 将来は、少しでも人の役に立つ仕事に就きたいと思っています。

 また、復興に向けて皆で力を合わせ、頑張っていきたいと思います。

関連リンク
東日本大震災1年 追悼式で1200人黙祷(3/11)
〈東日本大震災追悼式〉岩手県遺族代表のことば(3/11)
〈東日本大震災追悼式〉宮城県遺族代表のことば(3/11)

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