« 辺見庸 (日録21)私事片々 2014/06/12~と、(日録22) 雑談日記Archive | トップページ | 辺見庸 (日録25)私事片々 2014/07/09~と、(日録26) 雑談日記Archive »

2014年8月25日 (月)

辺見庸 (日録23)私事片々 2014/06/26午後~と、(日録24) 雑談日記Archive

 辺見庸さんの(日録)私事片々の雑談日記Archiveを始めようと思ったメモなどはこちらで。辺見さんがよく言う「エベレスト」についてはこちらで

 以下、辺見庸ブログの(日録)私事片々をすべてアーカイブ保存しておきます。写真が多いので、2エントリーずつアップします(表示順は元ブログと同じく上から降順です)。

 

 以下、日録の24と23。

2014年07月02日
日録24

私事片々
 
2014/07/02午後~2014/07/08 
http://yo-hemmi.net/article/400848803.html

E4bb8ae5b9b4e381afe38198e38281e381a
今年はじめての白サルスベリ.JPG

・左耳に「テラヴィーヴのね……」と聞こえた。テラヴィーヴ。左耳は右耳よりよく聞こえる。国会前で徹夜抗議をしていた友人が、暗がりで不意に、テルアビブの話をしだした。なにも大した話ではないのだが、なぜだろう、荒くれていた気分がいくぶん凪いだ。テルアビブにはいきたかったのに、いったことがない。テルアビブには「アロマ」というカフェチェーンがあるのだそうだ。友人は夏の夜、大通り脇のアロマで、あるひとを待っていた。「約束はしてなかったけれども、なんだか会えるような気がしてね、2杯くらいかな、カプチーノをおかわりした。たぶんその間、私が待っていたひとは、自転車で他の場所のアロマをハシゴしていた。そんな気がする……」。自転車でアロマをハシゴ。なんだろうか。待っていたひとがだれだったのか、用向きはなんだったか、わからない。いわれなかったし、こちらから問うこともしなかった。友人じしんのことだって、じつは、あまりよく知らない。口ぶりからすると、どうも数年前にお母さんを亡くしているようだ。認知症だったのだろうか。いまでもときどき母親を怒っている夢をみるという。「アイムソリーっていわなくていいよ。私は楽になったのだから」と、犬へか、わたしへか、どちらかにいった。アイムソリーっていわなくていいよ。ビールでも飲んでいたのだろうか。聞いていて、からだがほぐれた。話はとぎれた。友人がつぶやいていた。「……青いインク瓶のようにして、記憶をしまう……」。えっ?応諾でも反問でもなく、わたしは口のなかで声を泳がせた。えっ?青いインク瓶のようにして記憶をしまう。友人は前後になにかをいっていたのかもしれない。きっとそうだろう。拡声器の音で、前後の言葉がかき消えた。わたしも、夕暮れどき、テラヴィーヴのアロマにいって、カプチーノを飲みたくなった。できれば犬と。この数日、いやもっと長くか。荒んだ。言葉がむくみ、みにくくたわんだ。このままではこのクニがダメになるといわれた。だからどうした。もうとっくにダメになってるぜ。もっともっとダメになればいい。おもっていても、いいはしない。戦争になる。わたしもいい、ひともいう。戦争になれよ、やれよ、ガンガンやりゃあいい、きれいさっぱりぜんぶなくなりゃいい。そういいはしない。言葉が水腫みたいでいやになる。なんとかいう首相の話なんか、ほんとうはこんりんざいしたくない。ばからしい。おそろしくばからしい。なんでしたかといえば、あいつをヤラないと、こちらがヤラれる、とおもったからだ。さっさとヤラないと、こっちがヤラれる。いくらヤキがまわったって、そのくらいの勘はある。ヤルかヤラれるかだ。こちらのなにがヤラれるか。いちいち説明するのも面倒くさい。こういう話になると、だれの言葉もぶよぶよ水ぶくれになって、くだらなくなる。正義だ、平和だ、といえば聞こえはよいが、そんな駄菓子屋のマシュマロみたいなもんじゃない。正義の言葉くらい安っぽい言葉はない。平和の言葉もおおむねチープだ。殺人者が殺人直後にもらす、わけのわからない譫語のほうが、すうばいマシだ。ね、アイムソリーっていわなくていいよ。楽になったんだからさ。あなた、あのとき、サッポロビア飲んでたんだろ。ああ、テラヴィーヴのカフェに行きたいな。約束もしてないのに、夕方、カプチーノを飲みながら、だれかを、犬とともに、じっと待つ。そのだれかはイスラエル製の自転車でアロマのハシゴをしているようだ。だれかは、なかなかこない。あっ、血のような夕焼けだ。犬にテルアビブのビスケットを一枚やる。犬はオスワリをし、フセをし、いつまででもマテをする。テルアビブだろうがテヘランだろうが、気にしない。核戦争になったって、犬はオスワリをし、フセをし、マテをする。OKといわれるのを待つ。テルアビブのカプチーノはダフネのと味がちがう。どこかがちがう。あたりまえだ。『迷子の警察音楽隊』をおもいだす。あれ、いいな。かわいた空。かわいた土。濃紺の夜。青いインク瓶のようにして記憶をしまう、か。「なにも約束するな」か。よくわからないけれど、ほんとうにそうだとおもう。なにも約束するな、だ。わかるようで、なんだかわからないことはいいことだ。ぜんぶわかったら、反吐がでる。わからないから、死ぬまでは、なんとなく生きていられる。みあげたら、ことし最初の白いサルスベリが咲いていて、もう風にさらさら散っていた。エベレストにのぼった。(2014/07/02午後)

E3839ee38383e382af
マック.JPG

・朝おきてカーテンをあけたら、やはり、やはりだ、なにもかわっていなかった。犬にご飯をやってから、でかけようとおもった。年内にテラヴィーヴにいこう。ハイファにも。青緑色の海をみる。理由はない。ああ、アロマか。カプチーノ。ひとを待つ。露天のカフェで。くるのは、酔っぱらったヨーゼフ・ロートかもしれない。そうではないかもしれない。でも、とにかく知らないところで、コーヒーを飲みながら、知らないひとを気長に待つ。じっと待つ。目標をもつと、すこし元気になる。理想なんかじゃない。さほど意味のない目標。犬に声をかける。テラヴィーヴだよ。行くぞ。アパートの非常階段をおりる。親指大の、褐色の、とてもみにくい虫が1匹、すこしもうごかずに、階段のはしに、じっとはいつくばっている。踏みつぶすのさえためらわれる、みにくい虫。脚が20本ほども、もにょもにょとある。どうにもならない。虫。存在。虫。わたくし、虫、踏まない。階段にたちどまらない。じぶんはけふ、なにかすこしかわった気がする。どうしたのだろう。なにか、無慈悲になっている。冷酷に。わたしはたぶんユーリイ・ニコラエヴィチである。ユーリイ・ニコラエヴィチがだれか、なんて説明はいらない。説明はやめたほうがいい。ムダだ。おれはただたんにユーリイなのだ。携帯に電話がはいる。「ダー。ユーリイ・ニコラエヴィチ」と、ぶっきらぼうに名のる。V音に気をつけて。相手はあわてて電話を切る。ばか。ばかやろう。などと、どならない。でも、ユーリイ・ニコラエヴィッチでビビるなんて、まるで根性がない。アパートの外。おかしい。なにもかわりがない。盲人が杖をついてあるいている。理容室カノンに行く。以前刈ってくれていた鈴木さんがいない。栃木の実家に帰ったという。お客さんどなたでしたか、と訊かれる。でした?過去形か。ユーリイです、と答える。ああ、由里さんでしたか、どうもお待たせしました。大して刈るところもない髪を刈ってもらう。若いころのゴウヒロミみたいな男に。大して刈るところもないのに、いつまでも刈っているから、エア・カッティングだ。由里さん、なにしてるひとでしたっけ?えっ、じぶん、なにをしてるひとでありますか?よくわからなくなる。「ボーッとしてます」。ゴウヒロミ「そうですか。ボーッとしてるかたでしたね」。わたし「うん、毎日ボーッとしてる」。シャンプーもしてもらう。由里さん、熱くないでしたかあ、かゆいとこないでしたかあ。かわっちゃいない。すばらしい!世界はどこといって、これといって、とくにかわっていない。頭きれいにして、久しぶりにマック公園前店にゆく。制服が黒っぽいのにかわっていた。チキンフィレオとコーヒーと水注文。はい、お客様、チキンフィレオとコーヒーとお水でよろしかったですね。「手がわるいので……」。いいおわらないうちに、「はい、お席におもちします。お客様、お席でお待ちくださいませ」。すばらしい!500円玉でおつりがきた。おお、かんぺきだ。おもいだす。マックにくるとなぜだか死刑執行をおもいだす。虫。川崎さんが絞首刑で殺されたのは、先月26日朝だ。それからたった数日で閣議決定。やつら、サッカー予選リーグ突破とよんでいたのだろう。ニッポン全国大フィーバーのさいちゅうに、ヤバいことをぜんぶおしとおしちまえ、と。北朝鮮のミサイルだかロケット弾だかも、カムサハムニダ。カネだしてやってもらったんじゃないか。わたしことユーリイ・ニコラエヴィチは、チキンフィレオを食いながら、そんなことはどうでもよろしい、と首をふる。わたしには関係がない。ユーリイは静かだ。ただ、胸やけがする。むせる。そういえば、犬にけさ、とつぜん訊かれた。あんたはサディストなの?ニエット。わたくしユーリイは答えた。でもね……、犬にいってやった。精神はほんらい空虚をいとうものだ、というのは、ぜんぜんちがうとおもうぜ。精神は空虚をまったくいとわない。精神はほんらい空虚なんだよ。犬は尻尾をふった。マヨネーズのはみだしたチキンフィレオをほおばりながら、わたし、ユーリーは唸るように、となえた。唸るように。工藤さん訳と多少ちがうかもしれないけれど、まだ憶えているのだ。チキンフィレオをくわえたまま唸る。だれも聞いちゃいない。なにもかわってはいない。唸る。「ひとは殺戮に生き、殺戮で息吹き、血まみれの闇をさまよい、血まみれの闇のなかで死んでゆく……」。なにもかも、かわっちゃいない。かわっていないから、やすやすとかえられてしまったのだ。ヤルかヤラれるか、だ。エベレストにのぼった。(2014/07/03)

E38380e38395e3838de5b8b0e3828ae381a
ダフネ帰りの水たまり.JPG

・特別の日ではない、けふの、今朝、といっても昼ちかく、トーストを1枚食う。左手のスプーンで、ヨーグルトをすくい、トーストにベトベト塗る。トーストにヨーグルト塗ったって、とくに罰せられはしないだろう。ただの癖。犬がみあげている。雨がしとしとふっている。なんとなくメープルシロップがなめたくなる。メープルシロップを、なめなめしたくなる。戸棚から小さな瓶をだして、ヨーグルトが塗ったくられたトーストに、タラーリ、タラーリ、メープルシロップをたらす。犬があしぶみする。サトウカエデって知らないな。みたことがあるのかもしれないが、知らない。楓糖も知らん。食ったことあるのかもしれないが、忘れたね。カナダ。キャナダ。行ったことがある気がするけれど、よくかんがえたら、行っていない。なんどか誘われたが行かずに、ひとりで辞書ひきひき、『Catch-22』読んでた。むつかしかったな。あきれるほど、じぶんがつくづく惨めになるほど。よくわからないところがずいぶんあった。あんなむつかしいものが、スーパーでタマネギみたいに山積みで売られてた。米国内だけで1000万部も売れたらしい。悔しいからカナダに行かずに、『Catch-22』読んでたから、メープルシロップのことを知らない。このメープルシロップ、だれにもらったんだっけ。小笠原さん?ああ、あれはもう食っちゃった。昔だ。『Catch-22』だって、1960年代に発表されて、わたしが読んだのは1984年。もう大昔。著者のユダヤ系米国人ジョゼフ・ヘラーは前世紀末、亡くなった。帰国して日本語訳をみたら、べつものみたいに安っぽくなっていて、ほうりなげた。Cheech & Chongの映画みたいにニッポン語訳不能の言語がある。Cheech & Chong、おもしろかったな。意味がよくわからないけど、涙ながして笑った。あっ、このメープルシロップだれにもらったか、おもいだした。ざわっと葉むらが長靴で踏まれたような音が脳裡でした。あのひとだ。2度しか会ってない。初対面のとき、訊いてもいないのに、「わたし読売新聞とってます」といった。いやなかんじ。朝日じゃなく、読売購読者と、わざわざ公安警察に「申告」するみたいに、いった。なんだよ、それ。わたしにすれば、朝日も読売も、メクソハナクソだよ。どっちもクソ新聞だ。在日にだって「不幸せではない在日」だっているのですよ。そんなようなこともいってた。「不幸せではない在日」?なんだかむっとした。そんなことを問うてはいない。在日をぜんいん不幸せだと、わたしがおもっているとでもいうのか。ときたま、酔っぱらってだろう、夜にメールしてくる。「あなたのような100パーセントの日本人」とメールしてきたとき、腹がたった。侮辱されたみたいに。なにが100パーセントのイルボンサラミだ。そんなもの、どこにいるのか。いじけたジジイめ。無性に悔しかった。天皇だって100パーセントのイルボンサラミじゃないことぐらい、あなただって知ってるだろうに。韓国語の개(犬)と게(カニ)のちがいがよくわからない。ピョンヤンでカニといったつもりが、犬料理店につれていかれました。朝鮮語はむつかしいですね。初歩的冗談。「韓国」と「朝鮮」と、呼称をまぜこぜにして、たずねたことがある。かれはあいまいに笑って答えなかった。なんていうんだろうか、ドロッとした残忍な影が、あいまいな笑いの奥に浮き沈みしていた。と、おもった。知らぬふりをしても、歴史の帯に、残忍な黒い血の凝(こご)りが、剥がそうったってへばりついている。メープルシロップは、かれが送ってくれた。サラサラして薄いライトタイプ。ベットリしない。お孫さんをつれてキャナダに行っていたのだ。なにしに?孫を、怖い怖いイルボンから脱出させるために、だ。キャナダならなんでもだいじょうぶではない。でも、ヘイトスピーチがないし、イルボンみたいな陰にこもったいやがらせもない。そうだな。孫はいないけれど、孫がいたら、カネがあったら、在日だったら、在日でなくても、おれだって、孫をキャナダかニュージーランドあたりに脱出させるだろうな。イルボンって、だいいち、言葉がつうじないもの。大地震と放射能だけじゃない。街宣車がうるさい。おお怖い。言葉が、怖い。オ・モ・テ・ナ・シ。あれも怖い。なにいってんだか、なにがいいたいのか、腹がわからない。わたしの小さな黒い在日の개に、指につけたキャナダのメープルシロップをなめさせた。개、たいへんおよろこびになられた。焼きたての熱いホットケーキをおもふ。片面の焦げたの。メープルシロップをとろとろかける。においたつ。ユーリイ、やるのか、やられるのか……。雨の晴れ間に、エベレストにのぼった。(2014/07/04)

E99bbbe7b79a
電線.JPG

・「わたしと触れ合うものをわたしは突き刺して通ろうとする、突き刺して殺す。それ以外の交わりをわたしは知らない」。と書いた男がだれだったか、なんて、いまとなってはどうでもよい。そんなことより、この文にすぐつづく、ひとくさりはちょっとしたもんじゃないか。「歴史を拒否する者がもっともよく歴史に働きかける、つまり最もよく生きるのだ」。かれにより、もともとはトロツキーを知り、ずっとあとにシャラーモフをおしえられ、エセーニンについて耳打ちされた。それと、石原吉郎の薄甘さについて、口をきわめて悪口をいわれた。ジェラシーみたいに。かれはこうも書いた。昔の話だが。「俺はいやだね。君たちやりたいようにやるがいい。……時代に遅れるだろうって?いいではないか。時代は時代、俺は俺。時代がかまってくれなくたって、……そうしておくほかはない。俺は俺、そうあることによってのみ、時代は俺にかかわりがあるのだ」。引用してみれば、まるで大したことはないな。1956年までシベリアに抑留され、88歳で亡くなった。ずいぶん長く生きたものだ。生きるというのは屈辱そのものだから、88年間、陰に陽に、屈辱と恥辱にさいなまれ、ときには慣れっこになり、屈辱と恥辱を忘れもし、とにもかくにも、死ぬまでは生きたのだ。Who was he?だれでもいい。わたしだってだいぶ本の世話にはなったが、いまじゃ切実な関心があるわけじゃない。だが、どうだろう、かれじしんが不穏なひとだったとはとうていおもえない。不穏なことをみたりいったりするのがきらいではないけれど、とうのご本人は不穏ではないひと、だったろう。突き刺して殺す。とか、レトリックは不穏じみていても、 ヤポーニヤもヤポンスキーもヒロヒトをも、そこまで憎んじゃいなかったのだろうな。もっともっと憎んで軽蔑しきってほしかったな。なにがいいたいのかって?べつになにもいいたかない。蒸し暑い。ダフネ2号店に行こうとおもったけれど、やめた。3、4日まえのジャムパンをさっき犬といっしょに食った。犬がおれをみあげていった。「ね、ユーリイ・ニコラエヴィチ、こ、これ、えろ古いけど、イチジクジャムでっせ!」。だからどうしたといふのだ。おれは不穏についてかんがえているのだ。そうしたいひとは、キャベツでも食って昼寝してればいい。ここはいま、なぜ、こんなにも不穏ではないのか。訝る。公明党が「平和の党」だと。犬まで腹かかえてわろてはるよ。ここはいま、なぜ、こんなにも不穏ではないのか。訝らずともいいとされていることを訝る。ユーリイは、けふ、だれをヤレばいいのだ?ぼやぼやしていたらヤラれるというのに、だれをヤルべきかわからないなんて、ひどい話じゃないか。ほら、みろ、兵隊募集をやっている。さかんに。高校生に。中学生にも。やつらはじゅうぶんに、かつてなく、大いに不穏なのに、こちらはさっぱり不穏ではない。いっそ和やかである。「わたしと触れ合うものをわたしは突き刺して通ろうとする、突き刺して殺す。それ以外の交わりをわたしは知らない」なんて街中でたんかきってみろ。警官がすっ飛んでくるぞ。DJポリスが。ヘイワなんだから。でも、地滑りがはじまっている。まちがいない。足下がズルズルと流れている。「歴史を拒否する者がもっともよく歴史に働きかける、つまり最もよく生きるのだ」。これはだれのことだ、「歴史を拒否する者」とは?ヘラヘラ笑っているイルボンサラミよ、ひとばん、胸に手をあててとくとかんがえてみろよ。だめだ。言葉つうじなひ。言葉もう死にまひた。イルボンはマジやばい。在日コリアンのほうがよく知っている。「あの気配」をかんじている。肌で、からだで、骨で、かんじている。だからおれはおもふ。おもひます。イルボンサラミはイルボンから逃げないのなら、そんなにイルボンがすきなら、亡命しないのなら、なれるもんなら、せめて在日になれ!ザイニチに!イルボンサラミのクソやろうども、ザ・ザイニチになれ!それやこれとはかんけいはないけれど……。

「しあわせというやつは――」
――と その人は言い言いしたものだ――
「つまり あたまと手の小器用なこと
不器用な心というやつは どいつもこいつも
いつでも不しあわせということになっているんだ
ねじまがりひんまがって ほんとでない身ぶりが
むやみに難儀を持ち込むってのも そりゃあ
わかりきったはなしというものではないか」
(『不吉の人』内村剛介訳)
わたし、はい、エベレストにのぼりませんでした。(2014/07/05)

E3838fe382a8e381a8e88590e3828ae381a
ハエと腐りつつあるクチナシ.JPG

・ひところ、みつけたらてあたりしだいに観覧車にのっていた。そんな時期があった。いろいろ理屈をつけはしたけれども、あんなもの、のってみれば、とくにどうということはない。横浜、パリ、ダッカ、マカオ、ソウル、ラスベガス、ウィーン、シカゴ、ワルシャワ、ベオグラード、モスクワ……。空中の縦回転は、いくめぐりしたところで、なにかおきるわけのものでもない。ただ…、とけふおもった。下からゴンドラのわたしをみあげるひとと一瞬、目があうとき。そんなときがあった気がする。距離と視角と遮蔽物からしてむずかしいはずのことが、たしかあったと記憶している。テグ(大邱)。老婦人がいた。さそったが、婦人はのらずに、わたしだけがのった。老婦人はわたしの伯母にびっくりするほど似ていた。ふくよかな体型、泣くか笑うか怒るかしている、あいまいな中間のない、にぎやかな目、甕(かめ)の口からどっと溢れてくるような、ボリュームのある声。亡くなった一関の伯母がなぜここにいるのだろう。そう錯覚するくらい似ていた。一関の伯母のところに、わたしは疎開したことがあるらしいのだが、憶えていない。一関の伯母の面影がある老婦人は、わたしが疎開していたころ、台湾で日本兵を相手にしていた。4人のりのゴンドラをひとりで占領して、テグの空から婦人をみおろした。かのじょは松の木のかたわらにたって、わたしをみあげていた。目があった。息を呑んだ。かのじょは、そのかのじょなのに、目がいれかわっていた。真冬の凍てついた沼の目になっていた。泣くのでもない笑うのでもない怒るのでもない、寂しみより、もっとはげしく寂しい目。凍った孤独の、その目が、ゴンドラの下からわたしの目を射ていた。そうおもった。観覧車をおりてから、わたしは露店でミドリガメを1匹買った。かのじょはポツリと地べたに小石を落とすようにいった。「カメはなくのよ……」。よくわからなかった。カメはなくのよ。どういうことなのか。そのとき、あまりかんがえはしなかった。カメはなくのよ。ほんとうにそういったのかどうかも、最近はよくわからなくなってきた。鳴くか、泣くか、それとも、なにもかのじょはいわなかったのだか。マンガの空のふきだしに、わたしが勝手に言葉をいれたのだったか。観覧車のまえかあとに、お兄さんか弟さんかを紹介された。そのひとは、4畳半くらいのオンドルの部屋にゴロッとあおむいていた。筋ジストロフィーをわずらっていた。そのひとはかすかに身じろぎ、下からわたしに、なにか絞るようにしていったのだが、なにかわからなかった。わたしもなにかいったのだが、なにをいったのだったか。たぶん、そのばかぎりの調子のいいことをいったにちがいないのだ。横たわるそのひとを、わたしは行者かなにか尊いひとのように憶えている。そのひとのことを、わたしは記事に書かなかった。さいしょから書く気などなかったにちがいない。薄紙をいちまいいちまい剥がすように忘れていく。いちまいいちまい剥がれて、記憶の本体も、いちまいいちまい細っていく。ただ、ただよう風景のおぼろな変わり目に、なにか薄ら陽のように、ひとすじ、ふたすじ、からだに差しこむものがあったことだけは、くっきりと憶えている。それがなんであったか。なんでありえたのか。うまくいうことができない。うまくいいえないことが、まえはひどくもどかしかった。いまは、あまりもどかしくはない。差しこまれた薄ら陽は、容易に言葉にできないほど大事だったのだとおもう。かんたんに言葉にできないから、たいせつなのだ。かのじょは星が光ることを「ぴかる」といった。星はひかるのではなく、ぴかるのだ。かのじょはトシコとよばれていた。日々飛びたっては死んでゆく特攻隊員の相手をしていた。ぴかる星が落ちたら、それがおれの星だ、おれとトシちゃんの星だ。出撃前夜の兵隊にそういわれた。かのじょはそういった。わたしはぼうっと聞いた。からだに薄ら陽が不意に差しこんだのはそのときではない。それは、筋ジストロフィーの兄か弟に、逢ったときではなかったか。予定外のであいだった。かれは透明な水飴のような、よだれをたらしていた。わたしは終始うろたえてはいないふりをした。じじつ、うろたえてなどいなかったのだ。が、不思議な感情がからだを走った。悪感情ではない。ちがう。まったくちがう。あれはなんだったのか。あえいで、薄ら陽をたぐりよせようとする。なんどもたぐりよせようとしました。わからない。わかりませんでした。はっきりとはいえないのです。大事だということがわかっているのに、しかし、そのたいせつさの中身を、うまくいうことができない。しいて、しいていえば、いわなくてもよいことなのかもしれないが、いえばいうだけかえって遠ざかる薄ら陽なのかもしれませんが、それは、わたしというものそれじたいの、「恥」が照らされた、そんな感情に似ていたのかもしれない。エベレストにのぼった。(2014/07/06)

E88590e3828ae38286e3818fe382afe3838
腐りゆくクチナシ.JPG

・冬、月の夜、盧溝橋の欄干に手で触ってみたことがある。あれは大理石だったか、えぐられた弾痕を指でなぞったら、指が凹みにはりつき、皮膚が剥がれそうなほど冷たかった。永定河のことは憶えていない。ひとりで車を運転し、なんどか行ってみた。橋のたもとで、兵士に誰何されたこともあった。怖かったな。1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋近くで、日本の「支那駐屯軍」部隊が夜間演習をはじめ、その最中に、数発の射撃音があり、点呼したら日本軍兵士1人が足りなかったという。その兵士は腹痛で草むらにかけこんでいただけだったのだが、これは中国軍の「奇襲作戦」にちがいないと断定した牟田口連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。わたしはむかし学校でそう習った。日本の軍隊が外国であるはずの中国にいて平気で軍事演習をした背景も先生がはなしてくれた。関東軍がみずから満鉄の線路を爆破した1931年の柳条湖事件もそうだが、日中戦争はリーベン(日本)の謀略だらけだ、と。さて、37年7月9日に停戦交渉がおこなわれ、11日には両軍間で停戦協定が調印されて事態は収拾されたはずなのに、日本政府はとつじょ「華北派兵に関する声明」を布告。「満州国」に駐屯していた関東軍などが次々に侵攻し、北京・天津地方を占領。8月には第1次近衛内閣が「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」と宣言、約10万の大部隊の華北派兵を決定して、上海方面にも戦線を拡大する。やりたいほうだいである。9月には天皇ヒロヒトが「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と、中国側に戦争責任を押しつけ、明かな侵略行為を「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するため……などと強弁、正当だと主張した。こういうのをニッポン式「積極的平和主義」という。これをうたがったリーベンレンはほぼ皆無。それでもヒロヒトは戦犯にもならず、「人道に対する罪」にも問われなかったのだから、リ-ベンてのはものすごいクニなのだ。「暴支膺懲」(横暴非道な中国を懲らしめる)を口実にした侵略と殺戮は、昭和天皇のお墨付きをえてますます勢いづく。戦線はひろがる一方だった。他国の軍事占領は是か非か、人道上よいかわるいか、国際的準則にもとずいているのか……など、かえりみられたふしはない。12月にはついに南京を「攻略」。このときである、南京大虐殺がおきたのは。せいかくな数はわからない。だが、どんなに少なくみつもっても、数百、数千なんていう人数ではない。最低でも婦女子をふくめ数万人が殺された。大虐殺記念館ができるというニュースをわたしは、20世紀後半に、リーベンに送った。南京で取材した。ほっつきあるいた。足が棒になったな。汗をいっぱいかいたな。日本軍が中国の都市を占領するたびに、日本では提灯行列をし、万歳三唱をして祝った。新聞は「暴支膺懲」と書きたてて、あおった。12月13日の南京陥落のときは、とくに日本中が大パレードでわきたった。大フィーバー。東京の「奉祝」提灯行列には40万人が参加し、「日本勝った、日本勝った、また勝った、シナのチャンコロまた負けた!」などととはやしたてた。「中国人」なんてだれもいわなかった。シナ人、シナソバ、チャンコロ。かりに南京大虐殺の事実が当時、報じられていたとしても、提灯行列のもりあがりは、なにも変わらなかっただろうな。軍は中国各地に際限なく戦線を拡大して、「連戦連勝」に酔いしれ、宣戦布告のないまま、全面戦争に発展していった。それに異をとなえる者は、なきにひとしかったのだから、中国諸都市でのmassacreは軍事的勝利とほとんど同義であったはずだ。犯意はもともとないか、きわめて希薄であった。吉本隆明が「戦争中の気分」について語ったことがある。こちらは太平洋戦争時らしいが、「社会全体が高揚していて、明るかった」そうなのだ。「戦争中は世の中は暗かった」というのは戦後左翼や戦後民主主義者の大ウソ、戦争中は、世の中がスッキリしているというか、ものすごく明るいんです……云々と話している。それは一面でそうだったかもしれぬが、吉本さん、どうもおかしい。「かわいさあまって憎さ百倍」がもっとねじれ、高じて、戦後左翼や戦後民主主義者は、戦争発動者より、ヒロヒトよりもっとわるい、てな舌鋒になっていく。歴史はボロボロである。盧溝橋事件なんてもうだれも知らない。「満州国」も知らない。日中戦争でどれだけひとが殺れたか知らない。先生も知らない。先生が知らないのだから、生徒がわかるわけもない。南京大虐殺もなかったことにされる。けふは七夕。盧溝橋事件の数日前、現地駐屯日本軍将兵のあいだには、「七夕の日になにかかがおこる」という噂が流れていたという。エベレストにのぼらなかった。(2014/07/07)

E3838fe38381
アブ.JPG

・ニッポン外務省のホームページをみて仰天した。絶句。みまちがいとおもい、目をこすった。新たな対中戦争がはじまっている。あるいは、日中戦争はいまもまだつづいているのだ。「盧溝橋事件の発生」にかんし外務省はいう。1937当時の外務省ではない。2014年現在の外務省が、である。「昭和12年7月7日、北京郊外で日中間に軍事衝突(盧溝橋事件)が発生しました。日中外交当局は南京で善後処理交渉を行いましたが、事件の責任の所在をめぐって双方の主張は平行線をたどりました。現地では両軍の間に停戦合意が成立しましたが、中国政府は関東軍の山海関集結に対抗して華北方面へ中央軍を北上させたため、17日、日本は中国政府に対して、挑戦的言動を即時停止し、現地解決を妨害しないよう要求しました。これに対し中国側は19日、日中同時撤兵と、現地ではなく中央での解決交渉を求めました。その後、北京周辺で日中間の軍事衝突事件が相次いで発生したため、27日、日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った旨を声明、翌28日、華北駐屯の日本軍は総攻撃を開始し、31日までに北京・天津方面をほぼ制圧しました」。中国による「挑戦的言動」「現地解決を妨害」という事態があり、ゆえに「日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った」「日本軍は総攻撃を開始」云々というロジックは、77年前、すなわち、「大日本帝國」の国号時代とかわってはいない。ここからはニッポンによる中国の侵略、軍事占領、半植民地化という重大な歴史的事実が、ごそっとえぐりとられている。なんということだろう。基本的な歴史的事実という認識の根底がないのだから、もちろん、反省もあるわけがない。現地責任者であった牟田口連隊長(のちに陸軍中将)が1945年12月、A級戦犯容疑で逮捕された事実の記載もない。中国による「挑戦的言動」「現地解決を妨害」、ゆえに、「日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った」は、いまのアベ政権でもそのまま再現可能な、「自衛」または「自存自衛」という名の「戦争の論理」以外のなにものでもない。こんな調子では、かの悪名高い「対華21ヶ条要求」を、現在のニッポン外務省はどう説明するのか。傀儡国家「満州国」建国をどういちづけるのだ。満州事変をも「自衛行動」というのだろうか。このホームページはだれの指示で、だれが書いたのか。すごいことがおきている。どうも気流がおかしい。気圧が尋常ではない。息が苦しい。気象病か。気色わるい。精神がささくれだっている。ひとの感情がいきなり爆発したりしている。神経が剥きでている。いろんなことが狂いだしている。欧州、中東、中国、アフリカ。わけのわからないことが横行していないところはない。基底に狂気じみたなにかがあって、それが連鎖しあい、日々ふくらんでいる。どこでも極右と民族主義者、国家主義者が台頭している。歴史が映像のように巻きもどされている。友人が死刑には反対だといったら、そんなにニッポンがいやなら北朝鮮に行け、と周囲からひどく反発された。佐藤とかいう評論家が、集団的自衛権行使容認に賛成した公明党を堂々と賞賛している。なにがおきているのだろうか。アベ政権支持率は50パーセント以下になったが、まだ40パーセント以上が支持している。犬とコビトが、ブログをやめることもかんがえてもよいのではないか……などと提案のようなことを、さりげなくいう。もっとストレートにいえばよいのに。コビトの父が骨髄性白血病だ。治療にお金がかかる。毎日なにかがおきる。静まるには本を読むしかない。おなじ本をなんども読む。〈原ファシストはその潜在的意志を性の問題にすりかえる〉〈男根の代償として武器と戯れる〉〈戦争ごっこは永久の男根願望に起因する〉〈これがマチズモの起源だ〉〈原ファシズムにとって個人は個人として権利を持たない〉〈量として認識される民衆が、結束した集合体として「共通意志」をあらわす〉〈だが、人間存在をどのように量としてとらえたところで「共通意志」をもつことはない〉〈したがって、指導者はかれらの通訳をよそおうだけだ〉〈委託権を失った市民は行動にでることもなく、全体をあらわす一部としてかりだされ、「民衆の役割」を演じるだけだ〉〈こうして、民衆は「演劇的機能」にすぎないものとなる〉――。エベレストにのぼった。(2014/07/08)

↑↓SOBA:上記エントリー中、言及されている外務省ホームページのリンク。

トップページ>外務省案内>外務本省>外交史料館>外務省外交史料館 特別展示 日中戦争と日本外交
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/nitchu_nihon/

特別展示「日中戦争と日本外交」
I 盧溝橋事件の発生
概説と主な展示史料
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/nitchu_nihon/01.html

特別展示「日中戦争と日本外交」
II 全面戦争への拡大
概説と主な展示史料
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/nitchu_nihon/02.html

特別展示「日中戦争と日本外交」
III トラウトマン工作と「対手トセズ」声明
概説と主な展示史料
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/nitchu_nihon/03.html

特別展示「日中戦争と日本外交」
IV 汪兆銘工作
概説と主な展示史料
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/nitchu_nihon/04.html

特別展示「日中戦争と日本外交」
V 和平工作の蹉跌
概説と主な展示史料
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/nitchu_nihon/05.html

 

2014年06月27日
エッセイ寄稿
http://yo-hemmi.net/article/400374168.html

◎最新エッセイ

2014年7月6日発売の「文學界」8月号が、吉本隆明特集のなかで、
辺見庸の最新エッセイ「『絶対感情』と『豹変』――暗がりの心性」
(11枚)を掲載する予定です。

 

2014年06月26日
日録23

私事片々
 
2014/06/26午後~ 
http://yo-hemmi.net/article/400336515.html

Iron20door2
iron door2.JPG

・国家とはなんだろうか、国家とは。国家とはひとつの、神をでっちあげるような幻想(妄想)の産物であり、幻想の結果としての、まぎれもない災いである。それ以外ではない。国家幻想は、戦争をやむをえないものと正当化し、戦争へとひとびとを駆りたてる。ニッポンの国家幻想はまた、死刑を正当化し、生身の人間の首に縄をかけ、絞首刑にして殺すことの罪をためらいもなく無化する。殺す者も殺される者も生身の人間なのだが、死刑の執行は、まるで役所の道路清掃作業のようにかえりみられない。今朝、68歳の男性を、谷垣法相の命を受けて、絞首刑にして殺した大阪拘置所の担当刑務官数人は、おそらくそれぞれ現金で殺人にはとうていみあわない特別手当をもらい、今夜は、家族には内緒で、ジャンジャン横丁か鶴橋、京橋、新世界、飛田新地あたりで、浴びるほど酒を飲むことだろう。つらかろう。死刑囚の最期の絶叫、滑車のまわる音、ロープのきしむ音、頸骨が破砕される音、つけ根まで飛びでる舌、眼球、絶命しかけたひとの空中回転、血しぶき、失禁のにおい……を忘れるために。忘れようとしていっかな忘れえない記憶と消そうとしても胸に浮沈する罪の意識を散らしつくすために。「この男は、べつに死にかけているわけでもなんでもない。われわれと全く同じように生きてピンピンしているのだ。彼のからだのすべての器官は、ちゃんと働いている――腸は食物を消化し、皮膚は新陳代謝を繰り返し、爪はのび、組織は形成され続ける、というふうに、――すべてが、滑稽なほど厳粛に、そのいとなみを続けているのだ。彼の爪は、彼が絞首台の踏み板の上に立ったときも、十分の一秒間だけ生命を保ちながら空中を落下していく、その瞬間にも、相変わらずのび続けるであろう。・・・彼の脳は、依然として、記憶し、予想し、思考し――推理しているのだ。彼とわれわれとは、いっしょに歩きながら、同じ世界を見、聞き、感じ、理解している仲間なのだ。ところが、二分後には、突然、ガタンという音とともに、この仲間のひとりが消え去ってしまう――心がひとつ減り、世界がひとつ消滅するのだ」(ジョージ・オーウェル「絞首刑」高畠文夫訳)。そのまさに「生命の絶頂を、突然、断ち切ってしまわなければならない不可解さと、そのいうにいわれぬ邪悪さとに、はっと気がついたのだ」と、一九二〇年代にビルマに暮らしたオーウェルは、死刑囚を観察しつつ自他を厳密に描写した。オーウェルは絞首刑にいたる男の罪には一顧だにしていない。絞首台に立たされた男の身体各器官とじぶんのそれらを同等のものとして感じ、極刑そのものの不条理と邪悪さに全感覚を集中してゆく。死刑囚を「仲間」と言い、「仲間のひとりが消え去ってしまう――心がひとつ減り、世界がひとつ消滅する」と書く。こう言えることと、こう言うことがあざ笑われ、歯牙にもかけられない世界のあいだには深い虚無の峡谷がある。ということは、『いま語りえぬことのために――死刑と新しいファシズム』の「朝の廃墟」のなかでもう書いた。わたしが書いたとて、ニッポンとニッポン人は死刑をやめず、やめる気もない。しかたがない。なんどもくりかえし、死刑に反対するしかない。災いを結果する幻想でしかない国家にとって、せいぜいできる善きこととは、死刑の永久停止、死刑制度の廃絶くらいしかない。けふの死刑執行の報せは、電話で病院の検査予約をとりつつあるときに、ふと聞いた。ひどいものだ。数年来、おりおり胸をかすめていたイメージを、またおもう。カマイタチのような、瞬時の、みえない傷。衝迫。〈おい、国家よ、どうだ、こんどはおれを刑場にひきたてて、身代わり絞首刑ってのをやってくれないか。おれにはそうされる用意がすでにある〉……。おれの内面は死刑囚たちのそれより万倍も(死に値するほど)邪悪なのだから。いまの政権を蛇蝎のように嫌悪し、おまえらがしきるクソのようなこの世に生きることに、もうほとほとうんざりしているのだから。どうだ、安倍よ、谷垣よ、次の「昭和の日」あたりに、おれを公開処刑にしてくれないか?ただし、刑務官たちを煩わせるのではなく、安倍よ、谷垣よ、おまえたちファシストが、手ずからおれの絞首刑執行にあたれ。首を折られてぶらさげられたおれは、クルクル回転しながら、おまえたちの顔におれさまの血反吐をおもいきりぶっかけてやる。これは冗談ではない。エベレストにのぼらなかった。(2014/06/26)

E58685e88793
内臓.JPG

・霧の犬をスッポリとからだにおさめて、霧のなかをダフネ1号店に行く。足が3本しかない霧の犬が、おれとともに、からだのなかをとぼとぼとあるいている。お金をはらうときに気がついた。ぎょっとした。こ汚いおれの千円札に、ショボい漱石がいるではないか。みすぼらしい、貧相な、アホらしい、マヌケな漱石が。悲惨だ。とても悲惨である。死んで紙幣にされるほど最低なことはない。ひょっとしたら、絞首刑でころされるより、ひととして最悪だ。なあ、アベ・シンゾー、そうおもわんか?タニガキ、あなたはそうおもわないか。起立、礼!天皇陛下、あなたにも謹んでうかがひたい。死んで紙幣にされるとは悲惨ではないか。畏れながら、陛下は紙幣となるのを願ひますか。タニガキ、おまえは昨夜なにを食ったのだ、なにを。ほう、お線香1本あげるでなく、クロベ和牛のステーキだと?ミディアム・レアだと。朝、薄給の下級刑務官に絞首刑をやらせておいて、夜、じぶんらは満面笑みを浮かべてごちそうか。ニッポン・チャチャチャって、ほんとうに悲惨だ。漱石も鴎外も、死刑に反対した形跡はない。禁中の秘儀になにかしら似たニッポンの秘儀、死刑執行を、しきりに嫌悪したふしはない。いまもつづく禁中の秘儀を生理的に嫌悪しないやうに、死刑を生理的に嫌悪しないのだ。「高瀬舟」は根本からまちがった小説だ。なにが「知足守分」だ。高瀬舟を、死刑囚を刑場へとはこぶ舟と仮定せよ。文学は無限の仮説だ。従容として刑におもむくのがそんなに立派か?バカを言うな。庄兵衞をぶんなぐって川に飛びこみ、ぬけぬけと娑婆に生きてなにがわるい?おい喜助、そうはおもわぬか。絞首刑執行のその日に、沖縄に行き、戦没者墓苑を訪れて、沖縄戦の犠牲者の遺族らに、まったく言うにことかき、「元気ですごされますように…」と宣わったという天皇。なんだと?元気ですごされますやうに、だと?父のせいでたいへん申し訳のないことをいたしました。なぜ、そう言えぬのだ。「天皇陛下万歳!」と叫ばせ、たくさんの沖縄のひとびとに自決を強いた過去。そこになぜ触れないのか。なんじ臣民、すまなんだ。集団的自衛権行使のための閣議決定に朕はひととして反対すると、ひとこと、小声でなぜ本音を吐けぬのだ。アベ政権が言わせないのか。おい、漱石、千円札になっちゃったショボい漱石よ、ニッポンは悲惨だとおもわぬか。草枕の漱石よ、このクニは悲惨だ、チンケだ、ただいじましいだけだ、ケチだ、卑劣だ、インチキだ……となぜ書けなんだ。みみっちいい千円札の漱石よ。霧の犬のなかに入り、霧のなかをあるいた。山頂を子どもらに占拠されていたので、エベレストにのぼらなかった。(2014/06/27)

E99a8ee6aeb5
階段.JPG

・とはいえ、先般、〈おれを身代わり処刑にせよ〉といきまいたのは、老残の徴やもしれないにせよ、あながちこけおどしでもない。おれを公開処刑にせよ。いつものように安月給の刑務官たちにつらい殺人の労をとらせるのではなく、アベ、タニガキ、おまえたち国家権力をあやつる教皇や大僧正気どりの腐った低脳どもが、衆人環視下でじかに手をくだせ、と言ったのも本気だ。身代わりというからには、だれの身代わりか、と反問されてしかるべきだろう。しかしだ、誤解なきよう願いたい。おれは主義・思想のために行動し、不幸にして捕まった、かげながら一目も二目もおかれている〈立派な死刑囚〉のために身代わり絞首刑になりたいのではない。いかにも芝居がかったそのような正義面は大嫌いだ。おい、アベ、タニガキ、そして、アベ、タニガキの手下ども、よく聴け。おまえらが〈箸にも棒にもかからない〉〈冷酷無比、まったく反省もない、一滴の情状も汲みえない〉〈人間性のひとかけらもない〉〈弁護士さえさじを投げ、もう洟も引っかけない〉〈身内さえみかぎった、支援者ゼロの〉〈新聞・テレビ・セケンも、あいつなら殺られても、まあ、しょうがないか、とおもうにちがいない〉確定死刑囚に目をつけ、このところの死刑にあたり、国家への定期的な「供犠」のようにひとを選抜して無感動に殺している、そうした「にんげん」の身代わりになって首を吊られたいのだ。さて、無感動にひとを殺しているのは刑務官ではない。「市民」を自認し、朝日新聞をとり、口先ではさも現状をうれえるふりもするが、死刑にも集団的自衛権にも、からだをはってまで反対するわけではない、絞首刑執行後の夕刻には、もうそのことをケロリと忘れて、うまい夕食をとり、ばあいによってはセックスもやってのける、いわゆる良心的記者や良識的市民らが、この公的殺人を、じぶんらは手をくださずに、ときおり反対するそぶりをしながら、しっかりと支えつづけている。これではもうダメなのだ。おれを公開処刑にせよ。どうせやれやしないと高をくくって見えをきるのじゃない。事態はやるかやられるか、なのだよ。おれは首をへし折られ、空中をクルクルと回転しながら、アベ、タニガキ、おまえたちの顔に、ロケット花火のように勢いよくおれの血反吐をぶっかけてやりたいのだ。ついでに記者たちのバカ面にも。これがさしあたりのおれのロマンチックな夢だ。なになに、適正な法律がないだと?憲法の骨格をまったく無視して集団的自衛権行使容認にもっていっているおまえたち右翼ポピュリスト、ファシスト中のファシストに法律をかたる資格などない。にしても、いよいよそのときはきつつある。閣議決定による集団的自衛権行使容認。おもう。にんげんには二つの時間がある。歴史的な時間とおのれひとりだけの反歴史的時間=日常だ。99.999パーセントの人間は後者に生きてきた。このたびもまた後者に生きるだろう、反歴史的に、みみっちく。いやだな、とおもう。さりとて、〈署名・声明・呼びかけ人〉ブンカジンの嘘くささもごめんこうむりたい。もうだめなのだ、それでは。「わが国の近代以降の歴史のなかでは、現実を変えた行動などはひとつも存在しなかったし、思想がただその思想が存在するというだけで、すでに現実にたいして〈威力〉であるといえる思想を創りあげたという事実も存在しなかった」(吉本隆明)。にしても、そうだとしても、たとえそうだとしても、「いやだ!」「ノー、ノン、ナイン!」とはっきりと声にし、嘘くさい正義ヅラでなく、「人が法に叛くことはじつに人間くさいことなのだ」という余儀ない負の道理を、それぞれのからだでしめすときではないのか。もちろん勝つわけではない。なにかが変わるわけでもなかろう。徒労は目にみえている。空しいだけだ。惨めだ。屈辱的でさえある。だが、それらを百も承知で、デモで消耗するのと、消耗を頭から小馬鹿にして反歴史的生活のあさましさのみに浸かりきり、テレビでサッカーをみているのとでは、天と地のひらきがある。アベの顔に唾を!血反吐を吐きかけよ!コビトと雨中、病院。エベレストにのぼらなかった。(2014/06/28)

E8b7afe99da2
路面.JPG

・犬が?マークの形のフンをした。じっとみつめた。が、!マークのときも∞マークのときもあり、べつに異常の知らせではない。犬はじぶんのときどきの心象をウンチの形で自由に表現しているだけなのだ。あまり幸せではないらしいモトカノからメール。何年ぶりかのデート、またもなんとなく成立せず。ぶざまなかっこうをみられたくないしな。バス停のコビトがとつぜんの雷雨でずぶ濡れになったらしい。ヨーゼフ・ロートは平田達治訳よりも小松太郎の旧訳のほうが読みやすい。池内さんの訳は、原文がそうなのかもしれないけれど、アップテンポなのと体言どめの連発がどうも気になってしまう。先日、絞首刑で殺された人物の名前は「川崎」さんで、享年68だと、昼下がりにだしぬけにおもいだす。ほぼ同い年。川崎さんという、いまは亡きひとは、わたしにけふ、なぜか、だしぬけにおもいだされた。川崎さんにだって、わたしよりはよほど善いところがあっただろうに。そうかどうかを、法務大臣は拘置所に足をはこんで、川崎さんに面会して、調べたわけではない。よしんば、面会し、結果、「悪党」としかおもえなかったにせよ、川崎さんを殺す権利、資格はだれにもない。 人殺しはわるいという理由で、人殺しをする。しかも、大臣がじぶんの手で首に絞縄をつけて殺すのではなく、まったくひとを殺したがってはいない下級官吏に殺人を命令する。「原(ウル)殺人」よりも、国家の名をかりた、こちらの「法的殺人」のほうがよほど悪質であり、法相および総理は、あの世で閻魔様にキンタマをペンチか万力でブチッとつぶされ、ケツの穴に444匹の活きのよいゴキブリを突っこまれて悶絶死させられることになっている。ハトヤマ、チバ、おまえたちもそうだ。そっか、キンタマのないチバは、ばんやむをえない、ペンチ刑は免除されようぞ。下級刑務官はむろん無罪。死刑はやめろ。やめてくれ。死刑は本源的に戦争とおなじなのだ。やるなら、アベ、タニガキ、イシバ、オノデラ……おまえたちじしんがが軍服を着て刑場や戦場にいって、ひとを殺し、わが身にひとの返り血を浴びよ。若い者を戦場にも刑場にも送るな。ところで、権力の空間は非人称的であり、じつは中心もなく、網の目のように転移する……ってだれが言ったのだっけ?だれが書いたか忘れたが、そのとおりだ。絞首刑の報道を耳にしても、集団的自衛権行使容認の閣議決定を知っても、カネのあるサラリーマン夫婦はちゃんとジムにいき、ランニングマシーンで汗を流し、ジョジョエンで高級焼き肉を食うのだ。冷えたエビスビア飲んで、特上カルビを2皿食うのだ。若い、高学歴で、マックのバイトも被災地ヴォランティアもしたことのない、いわゆるカチグミ夫婦は、むろんフィストファックやアナルセックスなどのヘビーデューティを避け(たまにはやってみろよ)、つうか、フィストファックやアナルセックスやスカルファックのモチベーションや嵌めかたをそもそも知らず、知ろうとさえせず、朝日や日経をとり、テンセイズンゴの駄文を読み、産経や回転寿司やデモ行進や牛丼屋をなんとなく軽蔑し、たんまり定期預金をし、およそ罵声など発したこともなく、派遣社員に差別的眼差しをむけず、差別発言をしないコンプライアンスとやらのテクを知っていて、そのじつ、〈じぶんより劣る者たち〉と口にはださねど内心おもいこみ、ホームレスを人生観の問題と信じ、「卑怯」ということがどんなことなのかじっかんとしては皆目わからず、「ら抜き言葉」にはみょうに敏感なくせして、69を「スィクスティナイン」と誤読し、さればこそ、非人称的で、固定した中心のない、たえず転移する権力空間に、そうとはまったく意識せずに、しかし、いるともなくただボーフラのように漂っている、もみこまれた毛細的権力として現政権を無感覚にささえている。マスコミ、商社に多いというきゃつらのケツの穴に、ゴキブリ5匹くらいはぶちこんでやってもよろしいのではなひでせうか。エベレストにのぼらなかった。(2014/06/29)

E4b880e698a8e697a5e381aee99ba8
一昨日の雨.JPG

・さて、クロノロジカルにいえば、明日、歴史が大きく変えられる。もともと「ない」はずのものが、今後「ある」ことにされてしまう。参戦権。そもそも現行憲法がみとめていない権限であり、そして歴代政権も「ない」としてきた参戦権を、一内閣がとつじょ「ある」と強弁して、みとめてしまうというのだから、ただごとではない。これは国家権力によるひとびとへのあからさまな暴力にひとしい。憲法は「宣戦布告」と「講和」の権限を規定していない。戦争に負け、戦争を反省し、ゆえに戦争を放棄したのだから、あたりまえである。だから、憲法第9条は2項において「戦力を保持しない」「交戦権を認めない」とはっきりさだめており、これまでの歴代政府解釈も、名うての右派政権でさえ、この2点を、たとえしぶしぶにせよ、みとめてきた、みとめざるをえなかったのだ。じっさいには着々と軍備を増強してはきていたのだが、憲法上にかすれた母斑のように消えのこる平和主義=不参戦主義は、おそらく荒んだこのクニにおける、たった、たったひとすじの理想のあかしではあった。いま、安倍内閣はこの最期の薄ら陽をも、集団的自衛権行使容認により消し去ろうとしている。わたしはそれを受容しない。交戦権が否定されているのに、参戦して他国の防衛をする、すなわち戦争をするというのは、子どもでもわかる大矛盾である。しかし、ことここにいたり、わたしは言葉のたよりなさと、この状況にたたずむことの羞恥と屈辱と、いうにいえない嫌悪とをかんじている。それは、全景がすでに言葉ごとこなごなに砕かれているというのに、かつ、あてはまる活きた言葉のかけらさえないというのに、まるで一幅のまとまった風景をかたるように、「いま」をかたらなければならないからである。いまは、ただここに在るだけで、じゅうぶんに悲惨である。内奥がズキズキと痛い。わたしとわたしらは、とても貶められている。なにかひどいものに晒されている。外部に融けることもできずに、ただ疲れたまま、むきだされている。こうした心象を、外部への「プロテスト」につなげていくのは、筋ちがいというものだろうか。わたしは数日よくよくかんがえてみた。ひとはひとをたえず殺しつづけてきた。それらの「ひと」は歴史一般の他者ではなく、わたしやあなたをふくむひとだ。わたしやあなたをふくむひとはいまも、ひとを殺しつづけている。沈黙により傍観により無視により習慣により冷淡により諦めにより空虚さにより怠惰により倦怠により、みずからを殺す衝迫をかんじつつ、ひとを殺しつづけている。それはむしろ常態化している。だが、だからといって、今後ともそうであってよいということにはならない。鬆(す)のように疎外されたこのような心象を、外部への「プロテスト」につなげていくのは、筋ちがいというものだろうか。数日かんがえた。わたしはおもう。筋ちがいではない。わたしは内面の鬆をさらけだして、それらとこのクニの参戦という事態をつなげて、安倍政権に永遠に敵対することとする。この病んだ政権が、ファシストの、右翼ポピュリストの、国家主義者の砦だからという図式的な理由からではない。それよりも、この政権の全域をつらぬく人間蔑視、弱者・貧者さげすみ、強者礼賛、あられもない戦争衝動、「知」の否定、財界すりより、ゼノフォビア、夜郎自大、組織的大衆(メディア)操作、天皇制利用……が堪えがたい段階にまできているから、安倍政権をうちたおすべきだとおもった。でなければ、わたしの内面にはさらに多くの鬆がたつからだ。この政権とその同伴者たちには、かつて精神科病院の入院患者らを「優生学的見地」から多数薬殺したナチス政権と似た、なにかとてもいやなにおいがする。安倍政権とは、それじしん、ひとつの災厄である。本ブログの読者たち、友人たちに、わたしは「たたかい」をよびかけない。「連帯」もしない。連帯を呼びかけない。それぞれがそれぞれの〈場〉とそれぞれの〈時)に、それぞれの声を発すればよいのだ。もしくは、あくびして、まどろめばよい。もうなにも規範はない。あるべきであったせめてもの平和的規範を、安倍と(各所に配置されている)その一味は毀した。たたかうべき主体はやすやすと解体されている。いまを許すべきではない。友よ、痙攣のように抗うか、まどろむか、だ。エベレストにのぼった。(2014/06/30)

E99bb2e381a8e6a8b9
雲と樹.JPG

・それぞれの〈場〉、それぞれの〈時〉、それぞれの〈声〉、それぞれの〈無声〉、それぞれの〈身ぶり〉で、安倍体制をこばみ、内と外の「安倍的な脅威」をしりぞけ、(古い言葉で恐縮ですが)覆滅すること。打ち倒すこと。ああ、面倒くさい。うっとうしい。どうせムダだ。徒労だ。雲も樹も街路も、日常は昨日ととくになにもかわってはいないじゃないか。安倍体制はたしかに厭わしい。だが、人間であることじたいがそもそも悲惨なのではないか。他にやらなければならないことが山ほどある。読まなければならない本が何冊もある。かまわなければならない、かまうべきことごとがたんとある……。とつおいつしながら部屋をでた。なにかが、なにかに、ふさわしくない。みあっていない。釣りあわない。自己と外界。内心と言葉。「状況」といわれるものと自己存在。「状況」と抵抗。滑稽なほどみあってはいない。釣りあわない。なにをしたって割があわない。そうおもう。非常階段に、すっかりちぢれて黒ずんだ小さな葉っぱが一枚、いじけたように落ちていた。いじけたように、というのは、わたしがおもっただけだ。主観。葉はじつは、いじけてさえいないのだ。あるともなくそこにあったのだ。葉は、ほどなく、木の葉らしい色形を、さらにくずし、ただのクズとして、いや、クズとさえ認識されずに、風にとばされ、世界から消えさってしまうだろう。哀しくはない。空しくもない。葉は葉。無は無。風は風。死は死。それだけのことだ。なにも大したことではない。わたしだってアパートの非常階段上にたまたま舞い落ちた、葉にすぎない。葉と同等である。一枚の病葉。その存在に、ふさわしくないも、みあわないも、割があわないもない。葉は葉だ。どうあれ、いずれはふっと消える。それなら、そうであるならば、それぞれの〈場〉、それぞれの〈時〉、それぞれの〈声〉、それぞれの〈沈黙〉、それぞれの〈身ぶり〉で、安倍とその一味をこばみ、安倍を転覆し覆滅しようとすることは、葉の、葉と同等のものの、ちょっとした仕草として、あってもよいのではないか。存在と抵抗と〈あがき〉に、割があうも割があわないもない。抵抗は、もともとなにかにみあうものではない。一切にみあわないのだ。非常階段上の、ちぢみ、黒ずんだ葉。消えることだけが確約された記憶。それでいい。それがよい。それだからよい。それでもなお、くどくどといえば、アベとかれの同伴者たちはまったく呪わしい「災厄」以外のなにものでもないのだ。覆滅すべし!集団的自衛権行使容認はとんでもない錯誤だ。秘密保護法はデタラメだ。武器輸出解禁も許せない。原発輸出政策もとんでもない恥知らずである。朝鮮半島がかかわる(征韓論者たちを正当化する)史観、およそ反省のない日中戦争・太平洋戦争史観、強制連行・南京大虐殺・従軍慰安婦にかんする破廉恥な謬論、居直り的東京裁判観、靖国観、天皇(制)観、ニッポン神国史観という本音、核兵器保有可能論……どれをとっても、じつは「同盟国」米国でさえあきれている(ドイツであれば身柄逮捕級の)ウルトラ・ナショナリストである。そんなこと、もう言い飽きたよ。口が腐るよ。なによりも、なによりも堪えがたいのは、権力をのっとったアベの一派が、貧寒とした頭で、人間存在というものをすっかり見くびっていることなのだ。国家が個人を虫けらのように押しつぶすのを当然とおもっていることだ。みずからを、(議会制民主主義を批判したカールシュミットの言い方にそくせば)「例外状態にかんして決断を下す者」、つまり国家非常事態(戦争)を発令できる者とかんぜんに錯覚してしまったこと。錯覚したのは本人であり、錯覚させたのはかれのとりまきと自民党、およびファシズムを大いに補完する公明党=創価学会、財界、一部民主党をふくむ親ファシスト諸党派、砂のように無意識に流れてゆく「個」のない民衆、最終的にはいかなる質の権力であれ、権力に拝跪するのだけを法則づけられているメディア……と、いまいったところでなんになろう。しかし、なお、身じろぐのだ。一枚のちぢんだ葉にすぎないわたしは、無為にふるえ、不格好に身じろぎ、声にもならない声で、「否!」といおうとする。風に吹き飛ばされながら「否!」という。エベレストにのぼった。(2014/07/01)

E6b0b4e6bbb4
水滴.JPG

・憲法9条の「生前葬」は、これまでもなんどもみてきた。葬儀委員長は、おおむね自民党総裁がつとめたが、非自民のコバンザメ政党幹部も葬儀委員に名をつらねていた。しかし、自公野合協議にもとづく昨日の閣議決定ほど、あからさまな憲法扼殺はなかった。元自民党幹事長・小沢一郎にさえ、この国は「憲法なき国家」になった、といわしめたのだから、アベの常軌を逸した暴走・独裁ぶりが知れる。現行憲法と集団的自衛権行使容認の法的整合性について、そんなものは「抽象的、観念的議論」だと切ってすてるにいたっては、1933 年に政権を掌握したナチスの言いぐさと同じだ。具体的に「朝鮮有事」を明示し、ニッポン軍出撃の意欲もしめしたのだから、戦地には行かない、戦争はしないという口上とまるっきり辻つまがあわず、理屈が支離滅裂。察せられるのは、クレージー・アベのオツムテンテン、つぎは徴兵制ないしそれに類する「増兵策」をかんがえているだろうということだ。いずれ原子力潜水艦保有だっていいだしかねない、手前勝手な燃えさかりかたであり、錯乱・倒錯ぶりである。この政権の1日も早い覆滅をねがうのみだ。昨夜のニュースをみていてあきれた。NHKのオーゴシがまるで政府広報みたいに(毎度そうですが)、集団的自衛権行使容認で戦争抑止力がたかまる……などと例によって珍解説。これは受信料をはらってまでみるようなシロモノではない。返金しろ。オーゴシ、きみはエヌステをやめて籾井のカバンもちか、内閣参与にでもなって、下痢男アベのケツでもぬぐっているのが天職だよ。にしても、報道各社の政治部記者、デスク、部長、政治部OBの質の悪さよ!堕落ぶりよ!共同OB後藤某の話なんざ、田舎のご隠居さんがよろこびそうな、どうでもいい永田町のうらばなしかうわさ話オンリー。歴史観も世界観も政治理念も批判精神もあったものではない。したがって、閣議決定による集団的自衛権行使容認という憲法破壊がどれほどの暴挙か、どれほどの危険性をはらむものか、歴史的に位置づけることができないばかりか、反対の大論陣などはれるわけもなく、自民党おかかえの芸妓よろしく料亭のお座敷芸のようものをひろうして花代をかせいでいるだけだ。このたびの集団的自衛権行使容認にいたるプロセスで、報道各社政治部現職およびOBの、はなはだしい不見識がはたしたやくわりは看過できない。にしたって、政治部のアホどもはうす汚い政治家に、社会部の警察担当はわるずれしたデカに、髪型から衣装、にごった目つき、口ぶり、ジャーゴン、口臭まで、歴代ほぼ例外なく、似てくるのはなぜなのかね。さて、憲法9条の「生前葬」の件ですが、いうまでもなく、「本葬」はまだだ。仮葬もまだである。わたしの勘と切ない願望をいわせてもらえば、9条は仮死状態でも、どっこいなんとか生きのこり、安倍政権の瓦解とアベじしんの「本葬」こそを、われわれはみることになるのではないか。あまりにも愚かで、慎みを欠き、ひとびとをみくびっているからだ。(2014/07/02未明)

SOBA:上記「さて、憲法9条の「生前葬」の件ですが、」から始まる一文、“安倍政権の瓦解とアベじしんの「本葬」こそを、われわれはみることになるのではないか。あまりにも愚かで、慎みを欠き、ひとびとをみくびっているからだ。”の部分が要旨記憶にあってもう一度読みたいと思うも、グーグルで探してもなかなか出て来ず、雑談日記内検索で探せました。灯台もと暗し。

始めに戻る


 

完全版 1★9★3★7 イクミナ (上) (角川文庫)
完全版 1★9★3★7 イクミナ (下) (角川文庫)です。


 

辺見庸さんの『増補版1★9★3★7』と、
堀田善衛さんの『時間』(岩波現代文庫)です。 


 

辺見さんの『1★9★3★7』(イクミナ)です。 

|

« 辺見庸 (日録21)私事片々 2014/06/12~と、(日録22) 雑談日記Archive | トップページ | 辺見庸 (日録25)私事片々 2014/07/09~と、(日録26) 雑談日記Archive »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/91038/60212208

この記事へのトラックバック一覧です: 辺見庸 (日録23)私事片々 2014/06/26午後~と、(日録24) 雑談日記Archive:

« 辺見庸 (日録21)私事片々 2014/06/12~と、(日録22) 雑談日記Archive | トップページ | 辺見庸 (日録25)私事片々 2014/07/09~と、(日録26) 雑談日記Archive »