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2014年8月25日 (月)

辺見庸 (日録25)私事片々 2014/07/09~と、(日録26) 雑談日記Archive

 辺見庸さんの(日録)私事片々の雑談日記Archiveを始めようと思ったメモなどはこちらで。辺見さんがよく言う「エベレスト」についてはこちらで

 以下、辺見庸ブログの(日録)私事片々をすべてアーカイブ保存しておきます。写真が多いので、2エントリーずつアップします(表示順は元ブログと同じく上から降順です)。

 

 以下、日録の26と25。

2014年07月15日
日録26

私事片々
 
2014/07/16~2014/07/22 
http://yo-hemmi.net/article/401840684.html

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サルスベリの下からのぞく空.JPG

・ジョルジョ・アガンベンによると、狂宴(サバト)のさなかにサタンの肛門に接吻をしたと審問官に訴えられた魔女たちは、「そこにも顔があるから」と応えたのだという。魔女のたわごととはいえ、これは傾聴すべきかんがえではなかろうか。そこにも顔があるから。うん、おもしろい。「顔」とは、人間がとりかえしのつかないしかたで露出しているということだ、とアガンベンはいう。集団的自衛権の行使をみとめた閣議決定をめぐる閉会中審査をテレビで見たときに、「そこにも顔があるから」をおもったのだ。わたしは「首相」といわれている男や質問者たちの、「顔」とされている、なにか不吉で猥瑣な凹凸を、テレビ画面に映されるままに、しょうことなく見ていたのだった。首相と呼ばれている貧相な男の口は、フジツボの形をしていて、なにかわたしには理解しがたい言葉のようなことを早口で話すとき、あれは舌なのであろうか、直腸の下端の粘膜に似た肉色ものが、まさに脱肛した肛門のように不気味にうごくのだった。面妖で貧寒とした光景であった。質問者とて、ほとんどおなじであった。荒涼とした窪地や濁り腐った沼のようなものを首のうえにのせた者どもが、ガスでも発するように言葉らしきことを話すのである。こちらにもかすかにわかる言葉を口にする者もいるにはいたが、それも権力欲によって虫食い状態になった言葉なのだった。「顔」とはとりかえしのつかないしかたで人間が露出しているということであるとともに、露出のなかに人間が隠れたままにとどまっていることだともいう。人間というのはさしも薄気味のわるい現象である。あれは国会というより、ウンベルト・エーコの『醜の歴史』の図録にでてくるような、悪魔崇拝の集会か魔宴なのではなかろうか。とすれば、肛門をさして「そこにも顔があるから」といった魔女らのいいぶんにもなにがしかの道理がある。あんなものを国会などと呼ぶべきではない。悪事(まがこと)が蠱(まじこ)る場所にちがいない。午後、ブルガリアのセファルディムの末裔エリアス・カネッティがきた。あれ?うっすらと記憶がある。これは(笑うしかないではないか!)わたしが以前、売った本かもしれないのだ。脳性麻痺者のように手脚をピョコタンピョコタンしながら、ダフネ1号店に行った。のようにではない、わたしは愉快な脳性麻痺者である。毎日が新しい。エベレストにのぼった。(2014/07/16)

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大きなキャット.JPG

・米国の国務長官とかいう、顔が臀部のようにおおきな男が、イスラエル軍のガザ爆撃はイスラエルの「自衛」のためだと恥ずかしげもなく支持を表明している。組織的、計画的なパレスチナ市民虐殺行為を「自衛」のためだというのである。この者たちは身体各部と論理のあるべき位置がひっくりかえってしまっている。逆立ち。顛倒。この男の脳は臀部にあり、顔であるべき場所に臀部がのっかっている。英語らしいものをしゃべるあの横柄な穴は、口ではなく肛門なのである。かんちがいしてはならない。いまガザでおきていることは「復讐の連鎖」「暴力の応酬」などではない。200発以上の核兵器を保有し、実質世界第4位の軍事力をもつイスラエルが、世界一の人口密集地、貧困都市・ガザ市に、砲撃、爆撃をくわえるとはどういうことなのか。これは、病弱な赤ちゃんに完全武装した大人がおそいかかるのとなにもかわらない、文字どおりのジェノサイドである。米国はそれを知っている。知っていながらとめたことはない。ジェノサイドはすでに幾度もあった。知っていてなぜやめさせないのか、とお怒りのむきは、ケネディ大使にでも電話してみたらどうだろう。かのじょは「現実的なものは理性的だからです」とでもやさしくおしえてくれるかもしれない。現実的なものは理性的であるという幸せな世界には、〈罪〉が存在する余地がないのだ。世界とはグーグルアースの衛星写真のことであり、ミサイルはたんなる記号か、テレビゲームと同等のハイテク遊具である。ゲームを理解するにはゲームに参加すべきだ、という。イスラエルの防空システム「アイアンドーム」は、おそるべき最先端兵器産業ラファエル・アドバンスト・ディフェンス・システムズとイスラエル国防軍により開発されたものであり、米国により資金提供されている。ラファエル・アドバンスト・ディフェンス・システムズは米国と戦術高エネルギーレーザー (THEL=Tactical High-Energy Laser)などの各種レーザー兵器 を共同開発している。これにたいしハマスの打ちあげているロケット弾など、打ち上げ花火ほどの威力もない。「強制収容所の世界は……例外的に極悪非道の社会であったのではなかった。われわれがそこに見たものは、われわれが現に毎日投げこまれているこの地獄の社会のイメージであり、またある意味ではそのエッセンスであった」。1949年生まれのベンヤミン・ネタニヤフはこのことを知らないのかもしれないな。E.Ionescoを知らない、知ろうともしていないかも知れない。知らないのはまだよい。だが知ろうともしないということは、なんとおそろしいことだろうか。「強制収容所の世界は……例外的に極悪非道の社会であったのではなかった。われわれがそこに見たものは、われわれが現に毎日投げこまれているこの地獄の社会のイメージであり、またある意味ではそのエッセンスであった」。3ひねりのアイロニー。事実とはいつまでも「確定」しないのだ。このくらいのことをおしえてくれる賢人たちがネタニヤフのまわりにはまだいくらかはのこっているだろうに。消えたのか?なんということだ。ガザのジェノサイドはイスラエルの「自衛」のためだといってのけた、首のうえに臀部をのせた米国の国務長官とかいう男。集団的自衛権をニッポンは、こうした首のうえに臀部をのせた男のクニのために、命をかけて行使するというのである。なぜだろうか。謎である。しかし、ふかくかんがえてはならない。ふかくかんがえることは、死にちかづくことである。強制収容所のように。シュショウと呼ばれる、あのみるからに貧相な男もまた、首のうえに頭部ではなくして、クソまみれのケツをのせ、どうみても肛門でしかない穴をゴニョボニョとうごかして言葉のようなことを話している。友よ、あまりふかくかんがえてはならない。嘆いてはならない。発狂しないために。ただ、肛門に発声させてはならない。肛門が発した痴れ言にしたがってはならない。そのための方策をかんがえるくらいは許されてよいのではないだろうか。けふ、薬屋のまえで10円玉をみつけた。まわりをみわたし、ゆっくりとしゃがんで拾って、ポケットにいれた。エベレストにのぼった。(2014/07/17)

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グレーゴル・ザムザ.JPG

・2年ぶりに会った友人と、カフェで、意図せずしぜんにそうなってしまったのだが、出生外傷とか胎内憧憬といった、とりとめのない話をしていた。いずれにせよ、原因をさがしたり結果をなげいたりするには、われわれは老いすぎていた。フロイトもランクももう興味はない。身のまわりで、うまくいっていることなどなにひとつないのだ。みな死を待っている。はっきりそうまで意識しないにしても、おおかたが漠然と「終わり」を待っている。エクスタシスは、もう遠くふたしかな、なにか舌打ちしたくなるような、忌まわしい記憶でしかない。わたしたちは黙りこくった。それから、性能のよい補聴器の話をした。おどろくほど不熱心に。投げやりに。最高級の補聴器をしてまで聴きたい話や音がいまあるだろうか。うるさいだけではないかね。そんなことを、耳のよくない友人も、耳はそんなにわるくはないわたしも、話したり、うんうんと、けだるくうなずいたりした。たとえばの話、シュショウといわれている、おそろしくくだらないあの男とその一味が全員忽然と消えてくれたところで、そりゃなるたけ早く消えてほしいものだけれどもね、からだの内と外に、なんとはなしにただよっている憂悶の気分は失せはすまい。いやね、はっきりと悪いやつらがいるというのは案外にいいことかもしれないな。はっきりと悪い者は打ち負かすしかないのだから。打ち負かすことができなくても、打ち負かす目標にはなる。そうせざるをえない。よさそうで、そのじつ、狡猾な裏切り者が、正義の味方ヅラしてはびこるよりはまだマシなのかもしれないよ。そんなようなことを、わたしか友人のどちらかがいったのだが、よいとか悪いとかいっても、中身はボンヤリとしている。また黙ってしまう。そのとき、高校の低学年か中学の高学年くらいの少年がひとりで入ってきた。カバンを右肩から斜めにかけている。おっとりとした無表情。右足をおもくひきずっている。右手を胸のまえでかたくにぎっている。壁ぎわのスツールに座った。慣れているのだろう、左脚を軸にしたやわらかい動作だった。右脚には意思がつうじていないようで糸が切れたマリオネットのようだった。木瘤のみたいにかたくにぎりしめた右手は開かれることはなく、ずっと胸か腰のあたりにそえられたままである。店員が運んできたケーキを少年は左手のフォークですくい、ときどきケーキの断片に顔を近づけてマジマジとみつめてから、幸せそうにほおばるのだった。幸せそうに、というのは、わたしの一方的な観察であって、本人がどうであったかはさだかではない。より正確にいえば、みていたわたしのほうが幸せなような心もちになったのだ。わたしはじぶんをみるように少年にみいった。かれの右肩、右腕、右手、右腹、右足の痺れを、わたしの痺れとひとつらなりのもののようにかんじることができた。ふだんは、わたしの身体なのに、わたしのものとはとうていかんじられないときがしばしばあるあるのに。とりわけわたしの右半身はわたしが所有する「他人」である。しばしばどころか、いつもそうなのだ。行為も知覚も、わたしの行為、わたしの知覚であるというリアルな生動性に欠ける。「それらは多かれ少なかれ、本当のわたしではないにせの自己の行動、にせの自己の知覚と感じられる」(市川浩『精神としての身体』)のである。「私はあたかも傍観者のように私の身体とその行動をながめ、生との直接的な接触を失うことによって、しだいに空虚となり、生のすべてが無意味・無目的であるという気分に浸透される」(同)。こうした「症状」は、半身麻痺をともなう脳血管障害者によくあるものなのだが、わたしは『精神としての身体』を脳血管障害者になるはるか以前に読み、ふかく同感したのだった。「あたかも傍観者のように私の身体とその行動をながめ、生との直接的な接触を失うことによって、しだいに空虚となり、生のすべてが無意味・無目的であるという気分に浸透される」というのは、してみれば、脳血管障害者特有の病症(感覚障害)なのではなく、〈ひとはだれしもおのれの存在から疎外される〉という普遍的な感覚と地続きなのかもしれない。世界という器から意味という意味のいっさいがぼろぼろとこぼれ落ち、どのような死も生も、かんがえればかんがえるほど無意味になってしまったこの曠野にむざむざと生き延びてしまったこと。それでもなお〈いまも〉在らねばならないこと。そのことに噴出口のはっきりしない憤りをかんじる。この憤りが、集団的自衛権行使や特定秘密保護法を押しつけてくる権力にむかうのは、すじちがいというものだろうか。年老いた友に問うてみた。ね、どうかね。やけのやんぱちみたいなもんかな。無言だった。ただ、白内障の目が、老いた窪みに居直るように、ぬるっとひかった。マレーシア航空機がロシア製地対空ミサイルによって撃墜された。歴史は際限なく退行しつづけている。事実はいつまでも「確定」しないまま、かつておこりえないとしんじられていた諸現象だけが連鎖的に生起していく。歴史は年表としてのこるのみで、諸現象の本質は日々に薄らぐ。核ミサイルが発射される日もそう遠くはない。エベレストにのぼった。(2014/07/18)

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風で落ちたカキ.JPG

・小雨ふるサルスベリの並木道をあるいた。白い花の真下には、甘いにおいが垂れこめている。花の真下からでると、もうにおわない。白いサルスベリは垂直ににおうのだ。赤いサルスベリはまだ咲いていない。むかいの通りの赤いサルスベリは、ある日とつぜんに、おどろかすように、わっと咲くのだ。火事みたいに。あるいていておもった。マレーシア航空機撃墜の「目的」ないし「原因」はなんだったのだろうか。human errorというやつか。「人的過誤」。おかしな言葉だ。ヒューマン・エラー。意図しない結果をひきおこす人間の行為。前世紀最大級の試練と教訓であったアウシュビッツ・ヒロシマ・ナガサキも、human errorといいうるだろうか。だいいち、アウシュビッツ・ヒロシマ・ナガサキは後世の教訓とされているか。されていない。白いサルスベリはにおうけれど、赤いサルスベリはほとんどにおわない。昨夏、気がついた。ヒロシマのサルスベリは原爆投下後に炭のようにまる焦げとなったのに、翌年また花を咲かせたのだという。そのことはわたしをホッとさせはしない。かえって恐怖をつのらせる。ガス室と死体焼却場の運営をまかされた被収容者のグループを、ナチス親衛隊(SS)は「ゾンダーコマンド」と呼んだ。特別労働班。ゾンダーコマンドは、被収容者をガス室のまえに順序よくならばせ、順番どおりにガス室に入れ、青酸ガスの作用で皮膚が赤や緑にそまった死体をガス室から引きずりだし、水洗いし、口から金歯をとりはずし、女性の髪を切り、塩化アンモニアで洗い、死体を焼却場にはこび、投げこみ、炉にたまった灰をかたずけた。レーヴィが伝えたところによると、ゾンダーコマンドの代表はそうした作業のあいまに、SSのチームとサッカーの試合をし、他の者たちはそれを観戦し、応援したり、どちらが勝つか賭けたりした。ワールドカップ・サッカーでドイツが優勝するまでの、はるかな後景には、そんな陰画がいくらでもうまっている。SS対ゾンダーコマンド選抜のサッカーは、地獄の門のまえではなく、まるで「村のグラウンド」でゲームをやっているかのようであったという。和やかだったのだ。このことは、ゾンダーコマンドがしいられた「労働」の性質以上に、気を滅入らせる。奥深い永遠の恐怖である。人的過誤とはなにか。どこからどこまでがhuman errorなのか。アガンベンによれば、このサッカーは今日もまだ終わってはいない。途切れることなく、世界中でいまでもつづいている。雨がつよくなってきた。白い花の粒が路面に抜けた歯のように散らばっている。かつてゾンダーコマンドの一員だった者が証言している。「この作業をやると、1日目で気が狂うか、さもなければそれに慣れるかだ」。気が狂うか慣れるか。明らかに、前者の、すなわち「発狂」こそが、あるべき反応だったのかもしれない。しかし、われわれは慣れた。慣れてしまった。あるいは慣らされた。もしくは狂うのにも慣れた。慣らされたがゆえに、倫理の閾が消えた。「新しい倫理圏」は灰色ばかりで、はっきりした黒や明らかな白はない。みんながゾンダーコマンドである。人的過誤はerrorでも失策でもなく、むしろ必然なのである。必然の導きの糸で、2度の世界大戦、アウシュビッツ・ヒロシマ・ナガサキにつづく、今世紀最大の過誤がやってくるにちがいない。マレーシア航空機撃墜事件と当然ながらおきたその後の激震は、つぎなる「人的過誤」の巨きさが、はかりしれないものになるであろうことをほのめかしている。エベレストにのぼった。山頂にもサルスベリの白い花の粒がちらばっていた。幾百ものひとの歯のように。(2014/07/19)

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エルパソ・チワワズのユニフォーム.PNG

・マイナーチーム「チワワズ」のユニフォームがほしいとおもった。チワワ・マークのキャップでもよいのだが。エル・パソ・チワワズ(El Paso Chihuahuas)。サンディエゴ・パドレス傘下のAAAチームで、テキサス州エル・パソに本拠地をおく。いかにも弱そうなチーム名とスムースコートのチワワをデザインしたユニフォームが気に入って、アマゾンを検索したけれど、まだみつからず。あのユニフォームを着て、ダフネに行きたいものだ。大したわけはない。いや、わけなどなにもない。「チワワズ」のユニフォームは結局、入手できないのかもしれないが、それでもかまいはしない。たぶん、それをほしがったことだって、あさってあたりには忘れてしまうだろう。それでもいい。いま、なにに興味があるのか。むかしからだが、ポグロムとはいったいどういうことなのだ、ポグロムとは、とおもう。ディアスポラという言葉にも惹かれる。惹かれてきた。けれども、もうあまり時間はない。わたしは冷えたツチクジラの刺身をうすくちのショウガ醤油で食いたい。ぼんやり海をみながら。それは「チワワズ」のユニフォームをほしがるのとおなじくらい他愛ない、ナンセンスかもしれない衝動なのであり、食えなかったからといって、末期の床でなにも悔いはしないだろう。にしても、言葉の奥の含意するところ、言葉の底部の暗がりを、もっと知りたかったな。「どのグループもほかのグループより人間的だったわけではない」「犠牲者と処刑者はどちらも同じように下劣だ、収容所で学んだのは卑屈さの共有ということだ」――。糸口はいくつもあたえられていた。じゅうぶんにわかりぬくまえに、しかし、新たな災厄がかさなった。すでにひとびとが埋葬されている墓に、さらに遺骸を埋葬する「重葬」のように。新しい遺骸の下に古い屍体が、その下にはさらに古い遺体がよこたわっているので、「存在の究極的な内密性」にはとてもとどくことなどできはしない。「存在の究極的な内密性」とは、ひとという湿気った土中にある「恥」なのだろうが、「個人」がこうまで失われ漂白されつくしてしまったからには、どうやってそれをかんじろといえるのか。かんじないものをかんじろと命じることはできない。新しい冷戦だという。なんてばかげたネーミング。冷戦は、マルクーゼにいわせれば、「核戦争による破局、人類を絶滅させるかもしれないこの破局があたえる脅威が、ほかでもない、この危険を永続させている勢力を保護するのにも役立っている……」、そのことからくるおぞましい「秩序」や「均衡」や「規範」でもあったのだ。いまある脅威は、それらがなくなってしまった空白のなかで、息を呑んで立ちすくんでいる瞬間のことである。たとえどんなにおぞましくても、「秩序」や「均衡」や「規範」が結果的に形成されていたcold warならば、まだしも救いがありえた。これから訪れるもの、すでに訪れているもの、打つ手なしの下絵にみえているのは、「冷戦」ではない。「熱戦」である。弾道ミサイルにせよ核ミサイルにせよ、テクノロジーは中立ではありえない。所有者→使用者の愚昧性がテクノロジカルに顕現したのがマレーシア航空機撃墜事件であり、「破壊とたわむれることを可能ならしめる社会の論理、精神と物質をテクノロジカルに支配している社会の論理である」。戦争狂どもが目をかがやかせている。アベの血管がズキンズキンと脈打っている。投機屋たちが舌なめずりしている。「チワワズ」のユニフォームなんかいらない。なんの解決にもならない。エベレストにのぼった。(2014/07/20)

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白いサルスベリの花の粒ー抜けた歯.JPG

・不調。決心したのではなく、なにかのはずみで、『南京!南京!』をみた。体調がまたわるくなる。忘れたが、たしかダフネの帰りに、エベレストにのぼった、とおもう。(2014/07/21)

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葉の影.JPG

・朝から病院。放射線科etc.リーガ。ふらつきがひどく、歩くのもきつかった。エベレストにのぼらなかった。『南京!南京!』のことをかんがえていた。(2014/07/22)

 

2014年07月09日
日録25

私事片々
 
2014/07/09~2014/07/15 
http://yo-hemmi.net/article/401358975.html

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夏の枯れ葉.JPG

・いうにいえない衝迫がある。デストルドー(destrudo)がもっとも蒼古的な人間衝動かどうか知らない。が、現在の風景はとうてい受けいれがたい。できうることなら、いまはもっと物理的なぶつかりあいがあってもよいのではないか、とおもう。それに身体的に加わることのむつかしくなったわたしには、せめて大がかりなぶつかりあいをみてみたいという、とくに秘匿するにはあたらない欲動がある。それはマチスモとはまったくちがう衝迫である。ラテン語のウィオレンティア(violentia)が女性名詞であることはなにか示唆的だ。わたしは暴力に反対する。どこまでも反対する。暴力は人間存在の基本をおびやかすものであり、あらゆる対立と矛盾は、非暴力的な手段によって創造的に解決されるべきであることには論議の余地がない。しかしながら、そうした方法意識は、実現途上にあるどころか、社会はますます暴力化している。暴力はいまや「反暴力」ないしは「非暴力」の表皮をすきまなくまとって、静謐に組織化され社会化された。貧困と格差拡大、社会の階級化は、個々人の能力や無能力によってもたらされているのではない。「非暴力」の表皮をすきまなくまとったもの――すなわち、民主的に組織化され、社会化され、経済システム化された不可視の巨大暴力によって生成され、ささえられている。この不可視の巨大暴力を可視化する方法――〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと剥ぐ契機――がかんがえられてわるいわけがない。暴力に実際的に対抗できるのは同等量以上の暴力だけである、という。暴力を抑えるためには、より強力で組織的な暴力が社会のなかで形成されなければならない、という。わたしはそうはおもわない。わたしはどこまでも暴力に反対する。だからこそ、最大の組織的暴力である集団的自衛権に反対しつづける。ただし、集団的自衛権行使容認に反対する明るく楽しい「パレード」が、〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をまとった不可視の巨大暴力を、意図せず承認し、ひっきょう、巨大暴力の一構成要因となっていることについては、もっと思考をめぐらさなければならない。不可視の巨大暴力を可視化する方法とはなんだろうか。〈民主的で市民的で非暴力的な表皮〉をベリベリと引っ剥がす端緒とはなんだろうか。わたしのいうウィオレンティアは、殴りかかることではなく、おそらく、殴られることだ。他を打擲するのではない。「適切な法の執行」として、まったく理不尽に排除され、打擲されること、殴打されること、わが身体から血が流されることである。不可視の巨大暴力に民主的、合理的、法的に制圧され統制されることに、どこまでもジタバタと身体的に抗い、あがくことだ。そのとき、不可視の巨大暴力=権力は、有り体なすがたを、さらけだすにちがいない。そこにさえこぎつけられないで、集団的自衛権反対の意思が0.1パーセントでも実現するわけがない。霧雨のなか、エベレストにのぼった。(2014/07/09)

SOBA:「デストルドー(destrudo)」(←Wikipediaで)

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水面.JPG

・アガンベンの短文「しないでいられることについて」がすきだ。「わたしたちが所有する真理を保証するのは、わたしたちには所有できない身を焦がすような認識だけである」「できないこと、あるいは、しないでいられることをめぐる目も眩むような見通しだけが、わたしたちの行動に中身をあたえてくれるのである」。疲れきると、バートルビーをおもふ。バートルビーは、たぶん最後にのこされた、死ぬまで「わたし」として在りつづける唯一の方法である。「こうした無能力=非の潜勢力からの疎外は、何にも増して人間を貧しくし、自由を奪い去る」のだ。わたしたちは、「せずにすめばありがたいのですが」(I would prefer not to)とつぶやき、だんことして力や流れや指示に逆らいたい……そんなまともな衝迫を日々、衰微させられている。「できることでなく、できないことにたいして、しないでいられることにたいして、盲目になっている」。/ダフネ2号店でアブサンをチビチビなめていたら、みしらぬ男女に声をかけられた。まだすこしも酔ってはいないときだ。「あっ、先生」という。そう呼ばれるのが不愉快なので黙っていると、女のほうが、わたしの名前をさも親しげに「さん」づけていい、男女2人でむかいの席にすわる。そうしてくれといってもいないのに。男は小男。目が小さく鼻がとんがった鳥のような顔だった。どこかでみた顔だ。女は眉毛がとても濃く、垂れ目の、「アルバ公爵夫人」の顔だ。アルバ公爵夫人の名前がすぐに浮かんだ、とおもったら、男の名も連鎖的にでてきた。あっ、やつは「アリエータ」だ。わたしはそれだけでとても満足する。うれしくなる。こいつらがだれかなんて、どうでもいい。宗教団体だろうが公安だろうが。どちらにせよ、ひとりでは行動しないぐらい、わたしでも知っている。それより、このところ物忘れがますますひどくなっているのに、ゴヤの絵の登場人物の顔と名前をたてつづけにおもいだすなんて最高じゃないか。台風を忘れる。明るい気持になる。アルバ公爵夫人が紙袋から古本をだして、サインしてくださいという。見返しをみると、消しゴムでいいかげんに消された鉛筆書きの値段のあとがある。なんとなく、サインはしないと断る。右手がわるいし……。女の太い眉毛のはしが耳のあたりまでのびている。女は笑った。深追いはしてこない。アリエータが日本語でいう。「あの、先生のブログ……」。唇がうすい。目がくぼんでいる。アルバ公爵夫人の、あれは股間からだろう、ヨーグルトのような体臭が鼻をうつ。息をつめる。台風で空気がおもいので、においもうごかずにいすわる。「ファンです。読ませていただいてます……」。うそつけ。わたしはため息をつく。肩が痛くなる。台風のせいか、こいつらのせいか、両方か。男がいう。「すぎさったものだけがきれいにおもわれるのは、過去がすでに世界から距離をとっているからだ……って、いいですね」。わたしはそんなことを書いたおぼえはない。黙っている。風が窓をうつ。「いろいろお書きになっているでしょう。……ですよね」。小男が、問うているのだか、たんなる事実の指摘なのだか、小声で話す。あんたたち、だれなんだ?わたしは問いかけて、けっきょく、問いはしない。男女は、そんなヤボなこと訊かなくたって、みりゃわかるでしょうが、という文言を薄笑いを浮かべたまま、目ではっきりとかたっていた。窓ごしにヒューヒューと風の声がする。木立のしなる音もする。右肩が痛い。肩甲骨。骨に焼き火箸をつっこまれるようだ。この形容はいつもかわらない。かえなくていい。これ以上の、これ以下の、名状はありえないのだから。痛い。痛え。こうなったらこっちのものだ。台風の目がからだのなかで渦巻く。「避雷針売り」の気分になる。避雷針売りとかれを家からたたきだす男――両方の怒りがのりうつる。メルヴィルのきちがいめ。「でていけ!」。低い声でわたしはいう。「余計なお世話なんだよ」。男女がゆっくりと腰を浮かせた。靴がみえた。よく使いこんだ、減るだけ減った靴だ。靴をみりゃ、だいたいのことはわかる。靴と歯だよ。ほとんどわかるね。横浜のデカがむかし、いってた。「でていけ、おまえら……」とわたしは語気弱く口ごもる。小男が中腰で静かにいった。わたしの後頭部に言葉をボトボトたらすようにして。「なにを書いたっていいんですかね、先生。なにを書いたって……」。「でていけよ」。でていった。風のなかに。ヨーグルトのにおいがのこった。エベレストにのぼらなかった。(2014/07/10)

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戦車.JPG

・訪ねられたのだ、わたしは。だれかが不意に訪ねてきた。それだけがさしあたり、たしかなことである。あとは、すこぶる曖昧である。踏みこまれた、というのではない。偶然のようでもある。来意はわかるようでわからない。わたしたちは〈言葉のようなこと〉を交わした。言葉はそうごに同等の質量と価値をふくむものとは、いうまでもなく、前提されてはいなかった。かれらはポライトであったともいえた。どこか慇懃でもあった。はんたいに、どこか図々しくもあった。ひどくフツウでもあった。わたしは殴られなかった。わたしもかれらを殴らなかった。「避雷針売り」のような、はげしいいいあいも、とっくみあいもなかった。敵意も表面はなかった。直截明白な警告も、脅しもなかった。しかし、けっきょくは、それでじゅうぶんなのだ。そうおもう。恐怖を生みだすのは曖昧さだ。「恐怖を生みだすのは……現実が直接に知覚対象とされるときではなく、知覚の段階に先だつ不分明な想像力の霧のなかに現実がまだ身を浸しているときなのだ」(クレマン・ロセ「現実の近接性」石井直志・訳)。あれは暴力ではない。脅迫ではない。だが、いきなり殴りかかってくるのよりも、悪質な暴力である。権力とは、人間の素振り・言語表現の、どうともとれる曖昧さを、卓越した演出家のように熟知しているなにかだ。であるとすれば、アベという個体は権力システムのいっかくにいるにせよ、またその象徴であるにせよ、権力システムの全景ではない。にしても、おどろくべきことには、かれら2人――アルバ公爵夫人とアリエータ――は、いかなるたくらみもない、率直で、ややなれなれしいだけの、ひとのよい読者とかんがえることだってできないこともないのである。わたしの狭量と猜疑心が、ありもしない恐怖をこしらえているだけだ、とも。また、そうおもわせるのもやつらの手口なのだとうたぐることもできる。だから、非暴力の表皮を剥いで暴力性を露出させてみたくなるのだ。言葉というのは、じつは発出者がおもうほどにはつうじていないものだ。そのことを権力はヴィトゲンシュタインのように知っている。「これはわたしにはいま、ケシを食べている男にみえる」という表白が、なにも本質を意味しないことを、権力は本能的に知っている。そういえば、わたしはギクリとしたのだ。アルバ公爵夫人はきのう、いったのではなかったか。「ワンちゃん、おげんきですか?」。いや、いわなかったのか。きのうわたしは、あの後、タクシーをひろい、あわててアパートにもどったのだった。犬はキルティングの小屋で、風の音を怖がり、頭からマットをかぶり寝ていた。マットを剥いで、かのじょの生存をたしかめた。犬は寝ぼけまなこでわたしをみあげた。ジョジョは居間をゴトゴトとひとりであるいていた。ジョジョには底のない穴に似た、縦の意識がある。かれの意識は無意識とほどよく融けあっていて、弁別閾は人間の側からはまったくはかりしれない。人間には個々の罪悪感がある。大なり小なり。しかし、自己を全体に同一化する者にはおおむね罪悪感がないか、罪悪感をつよくかんじることができない。「罪」が意識されるのは、この自己・全体の同一化が、もはやつづかなくなるときである。「自己を全体に同一化する者」という表現は、しかし、「オスのタコは、8本の触腕のうち1本の先端が生殖器になっていて、これをメスの体内に挿入して性交する」といった記述ほどわかりやすくはない。「自己を全体に同一化する者」は、また、「自己を全体に同一化する者」という文言で自己を対象化したりはしない。アルバ公爵夫人とアリエータだってそうだろう。「自己を全体に同一化する者」は、自己を全体に同一化しない、または、そうできないと自覚したか断念するかした者によって意識的に組みたてられた、言葉の像なのであり、当人たちは「全体」と「自己」のかんけいやその断絶を、文言としてはかんじていないはずである。省、庁、局、部、課、係、班、支部、派、会、チーム、組……は、「全体」の文字化された位階であり、音声化された統御でもあり、インチキな神秘化作用のばしょとその移動を示唆する。おぼろにかがようものは、ただの幻である。タコのほうが正気だ、タコのほうが。自己を全体に同一化する者は、いっぱんに、他者を爆笑させることに、他のなによりもエネルギーを注ぐといった献身的資質に欠ける。ミズダコにはユーモアや悪ふざけの能力がある。そのせいか、ミズダコには「自己を全体に同一化する者」がきわめて稀なのだという。けふは、ダフネ1号店に行く。非常階段にカナブンが1匹うずくまっていて、すさまじくわいせつな想像にふけっているさいちゅうであった。エベレスト登攀中に雨がふってきた。雨のむこうにセミの声を聞いたような気がした。(2014/07/11)

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非常階段のカナブン.JPG

・イスラエルのガザ空爆つづく。11時半、倫敦亭、渡辺君。「イントラレンス」。マテバシイの店。「メトロポリス」。カネッティ「時間のある正確な一点から先、歴史は現実であることをやめてしまった、という痛ましい思いがよぎる。あるいは人間的ジャンルの総体が突如として現実と決別したとでもいうべきか」。まず、子どもに無理やりガソリンを飲ませ、しかるのちに、着火し、焼き殺した、という。ガザ空爆つづく。時間のある正確な一点から先、歴史は現実であることをやめてしまった。歴史が現実であることをやめたのは、かなり以前のことだろう。それから、かれこれ1世紀は閲しているのではないか。エベレストにのぼった。(2014/07/12)

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花弁の奥の虫.JPG

・イスラエル海軍特殊部隊がガザに一時侵攻した。承前カネッティ「……以来、生起したことどもはもはや真実とは無縁であるが、われわれはそのことに気づいてはいない」。ツェラン「うつろな僕らの刻(とき)に/歩み入った世界/二本の、黒い、枝分かれしていない、/節目のない/木の幹。/ジェット機の航跡の中に舞う、たった一枚の、輪郭鮮明な/その梢の葉。/このうつろさの中で、/僕らも戦争に加担している。」(「世界」飯吉光夫訳」)――といったところでなんとしよう。ガザ北部ベイトラヒヤで、重度身体障害者の養護施設を、イスラエル軍のF16戦闘機が爆撃し、女性の障害者2人が死亡、5人が重傷を負った。わたしたちが戦争と大量虐殺の歴史でまなんだ唯一のこと――それは、人間は戦争と大量虐殺によっても、なにひとつとしてまなばない、ということ。否。わたしたちは、やったこととやられたことをかならず「反復する」という逃れがたい定めを背負わされていることをまなんだ。わたしたちは存在するかぎり、「くりかえさない」ことができないという一貫性をそれときづかずにくりかえす。しかし、ひとびとはけっして怠けてはいない。怠惰ではない。わたしたちは新奇で奇抜な虐殺方法を次から次へとおもいつく。第3次世界大戦がおきている。いまはまだおきてはいないという者たちも、それはとうぜんおこりえない、どこにもおきてはいないとは、だれひとりとして胸をはって断言できない。起点をどこにするかだけなのだ。起点とは、修辞と感性の問題でもある。カネッティ「いまやわれわれに課された責務とは、この一点を見いだすことであり、それを捉えることができない以上、われわれは現在進行中の破滅のうちに踏みとどまらねばならない」。この一点とは、歴史が現実であることをやめてしまった、そのときのことである。エベレストにのぼった。(2014/07/13)

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なにかわからない小さなものの消失.JPG

・なにか ふたしかで小さなものが/音もなく杭にまとわり/杭を/滑り落ちてゆく/おぼろに白く/かそけく/かがようもの/下降しながら/最期の震えを震え/風にそよと揺れた/と きりもみした/かたられることはない/呼ばれることもない/なにものでもないものの/消失のせつな/気うとい消失点/落ちつつ/ひとっこひとりいない長い/長い汀線を/俯瞰する/瀕死の蝶のような/白いもの/の見ひらかれた/瞳(「消失」)。つきるところ世界とは、〈世界なき頭脳〉か〈頭脳なき世界〉か〈頭脳のなかの世界〉でしかない。で、ヴァニシング・ポイントは、その彼方においては、あらゆるものが「真」でなくなる到達点ーーすなわち、気づかれざる、わたしたちの「現在」である。現在とは、学者キーン――女中テレーゼ――佝僂フィッシェルレ――玄関番ベネディクトら、または、かれらの代役としてのわれわれによって演じられている、少なくとも1930年代からずっとつづいている奇態のことだ。エベレストにのぼった。(2014/07/14)

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葉むらのなかから.JPG

・社会の空疎な規格化、精密化。無人爆撃機というオバマ式ヒューマニズム。ところで、『審判』の末尾はこうだった。ヨーゼフ・Kは、誕生日の前夜、2人の死刑執行人に石切場へとつれていかれ、胸をナイフで2度もえぐられ、死んでゆく。最終行は――「『まるで犬だ!』と、彼は言ったが、恥辱が生きのこっていくように思われた」……。1972年の沖縄返還をめぐる日米間の密約文書の開示を元毎日新聞記者・西山太吉さんたちがもとめた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷が、1審の開示命令をとり消した2審東京高裁判決を支持し、原告側の上告を棄却。西山さんたちの敗訴が確定した。ひどい審判もあったものだ。最高裁は、密約文書が破棄された可能性をみとめた2審の判断にもとづき、行政機関が「存在しない」と主張する文書は、開示を請求する側が「その存在を証明しないかぎり」公にはできない、という珍判断というか、近代法以前というべき最悪の審判をしたことになる。文書の公開を求める側には、〈それが存在する〉という並大抵ではない立証責任を課し、一方で、情報を所持・管理する行政側の裁量権は、文書が存在するかしないかをふくめ、広くみとめるというのだから、カフカもビックリだろう。この司法判断には国家の悪しき母型がある。西山さんは日米密約の存在を暴いた。だが、沖縄返還がせまった72年、密約を示す機密電文を西山さんにわたした外務省女性事務官とともに国家公務員法違反容疑で逮捕される。メディアと世間は密約の重大な中身ではなく、西山氏と事務官の関係に目をうばわれ、またそうなるべくメディアと社会を「なにか」がたくみにマニピュレートして、ひとのなすべきまっとうな行為を「恥辱」へと変えていった。そうさせた絶大な力。事実の在・非在の判断権さえうばわれたなら、ひとではなく、まるで犬だ。司法は腐敗している。国家は腐爛している。恥辱だけが〈民主主義〉の顔をして生きのこっている。特定秘密保護法がどれほど悪辣な法律か、ほどなくみなが知ることになるだろう。法規にしばられた現在が、じつのところ、国家の暴力が露出する〈無法状態〉であることが、やがてあきらかになるだろう。「なにか」の息の根をとめなけらばならない。エベレストにのぼった。(2014/07/15)

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完全版 1★9★3★7 イクミナ (上) (角川文庫)
完全版 1★9★3★7 イクミナ (下) (角川文庫)です。


 

辺見庸さんの『増補版1★9★3★7』と、
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辺見さんの『1★9★3★7』(イクミナ)です。 


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