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2014年8月23日 (土)

辺見庸 (日録3)私事片々 2014/01/12~と、(日録4) 雑談日記Archive

 辺見庸さんの(日録)私事片々の雑談日記Archiveを始めようと思ったメモなどはこちらで。辺見さんがよく言う「エベレスト」についてはこちらで

 以下、辺見庸ブログの(日録)私事片々をすべてアーカイブ保存しておきます。写真が多いので、2エントリーずつアップします(表示順は元ブログと同じく上から降順です)。

 

 以下、日録の4と3。

2014年01月19日
日録4

私事片々
 
2014/01/19~2014/01/25 
http://yo-hemmi.net/article/385592099.html

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2014年1月17日に撮った電車のつり革.JPG

・ずっと待っていた。よいにつけわるいにつけ、もっとも大切なことは、これからはじまる。言い方をかえれば、もっとも大事なこと、または、最大の恐怖も、まだ訪れてはいない。だからなんとはなしに待っている。これまでもずっと待っていた。生まれてからいままで、一貫してずっとそうであった。なにかを、忍びながら待つ気組み――が、からだにそなわってしまっている。目で待つ。耳でさぐる。骨でかんじようとする。血がなにかに呼ばれようとして、じっと待つ。だが、もっとも肝心なことは、まだ起きてはいない。まだそこまではいってはいない。そうおもう。そうおもうことで、じぶんと手を打ってきたのだろうか。おどろくべきことも、たしかに、9.11や2011年3月11日や、いろいろあった。腰を抜かすほどのできごとも、ずいぶん見聞きし、目をうたがう修羅場にもいたことがある。しかし、だからどうしたというのだ。じぶんの存在が根こそぎうばわれたり、これこそが至上の慶事、ついにさぐりあてた真理、見たこともない美、最高の艶冶とは、ついぞおもったことがない。これこそ最悪の凶事、ひととして最低の堕落とはまさにこれだ…とかんじたことは、いくたびかあった。そうしたことがじじつあり、あったようでいて、つきつめると、なぜか確信はない。むしろ、これ以上の悪、これ以上の禍が、きっとあるにちがいないと予感してきて、じじつ、ほとんどが予感のとおりになってはいる。死の道をあゆむ者は、樹下のあの葡萄色の影へと、次から次へと例外なく消えていった。わたしもやがてそうなるだろう。だが、そうだ、これだ、これがどんづまりなのだ、これが終焉なのだ、と心底、感得したことはない。おそらく、そう感得する能力がなかったのだろう。したがって、ふたたび待つ。なんとなく待ってしまう。いまここにこうしてあるのは、まちがいかもしれないが、なに、その気になりさえすれば、いつか脱出できるだろう。誤りはじぶんがたださなくても、だれかがやってくれるかもしれない。で、待つともなく待つ。待つともなく待つようなそぶりで、そのじつ、なんだかいじましく生きている。ときに、満を持していると錯覚したりもする。えっ、満を持するだって? ばかげたことには、そうした気分になっていたりする。ちがう。まったくちがうのだ。おもうに、じつのところ、わたしは死以外のなにも待ってさえいない。72億人の怠惰な不作為者のひとりとして、いま、ここに、ただあるのみである。カタストロフィも口では言えぬほどの堕落も凶事も、あるとするなら、これからではなく、いまある。いま起きているはずだ。犬とLSVにいく。キジバトを見た。犬をバッグに入れてカフェに入る。犬はいちども鳴かなかった。わたしはもうなにも待ってはいない。けふもエベレストにのぼらなかった。明日は、できれば、エベレストにのぼりたいとおもう。(2014/01/19)

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2014年1月17日にプラットフォームで撮った褪せたユリの花.JPG

・政治とは、ほとんどのばあい、税金を蕩尽するプロのゴロツキたちの狂宴(オージー)なのであり、詮ずるに 、左右のどのような政治にも、個人として受容しうるものなどなにもない。にもかかわらず、政治とそれによりもたらされる出来事に、ひとりの人間がなんらかのかかわりをもたざるをえなくなるのは、なにも〈民主主義〉のためではなく、身体的についに堪えがたくなるからである。沖縄にたいし自民党政府のやってきたことは、組織暴力団と本質的に変わるところがない。政治の位相と生身のひとの生活の位相は、おなじ空間にあるようでいて、おなじ位相空間にはまったくない。前者は後者を負いはせず、支えもせず、ただ壊すのみである。政治と生活は、畢竟、根本から対立する。どのみちすべてはめくりかえされ、剥きだされる。言葉は日ごとにとどける意思をおびたものではなくなっており、いまよりさらにとどかなくなるだろう。いずれ暴力があらわになってくるのだろう。すでにそうなのだが、もっと言葉が暴力と近似的なものになる可能性がある。きのう、手の爪を切った。スイカズラの葉に蛍がとまった夜をおもった。(2014/01/20)

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2014年1月20日に撮ったオーロラ.JPG

・20日のことだが、寝不足ながら、エベレストにのぼった。山頂にシダレヤナギの枝が散乱していた。おもった。エントロピーは系の乱雑・無秩序・不規則の度合をあらわす量だという。エントロピー増大で情報過剰となり、そうなるとかえって秩序が失われて混沌とし、混乱が拡大していくとともに、根源的なもの(生命、魂)の喪失が常態化する、ということなのだろうか。この法則では、そもそも一定不変の「根源」など存在しないことになる。エントロピーの増加量は、系が吸収した熱量を温度で割った値にひとしい――といわれるが、よくわからない。わがんね。わかるのは、言語による説明のほとんど不可能な渾沌とした領域が、外面にも内面にもひろがっていることだ。原因不明のまま、結果的現象だけが蔓延する。原因不明のまま戦争勃発、核戦争に拡大…という未来もありうる。▼ポコとぱけちゃんが昨日きて、犬が大興奮、そうなったときの症状で、彼女の目が充血する。ミコリンは自家製のアジの南蛮漬けをみやげにもってきた。先日の無礼をわびるいみもあり、民生委員のオオタニさん(日録2参照)にもおいでいただき、ぜんいんワンカップ大関で乾杯、大いにもりあがる。過去のわだかまりを一気に水に流す。オオタニさんはせまいリビングなのに、得意のバック転をなんどもきめて悦びを表現していた。みんなでLSVにくりだし、犬たちもふくめ1列にならんで、いっせいに記念の放尿。シャーッ。夕陽にかがやく、いくすじかの黄金色の放物線が、公安関係者やパパラッチに激写されたらしい。LSVで無事、流れ解散。▼帰宅後、犬と入浴。浴室の壁に、吸盤のついたつかまり棒をとりつけたら、好奇心旺盛な犬が「それはなんといふものなのですか?」と訊く。「これは中国製の転倒防止用つかまり棒といふものなのだよ」とおしえてやる。すると犬は「そうなのですか、それは中国製の転倒防止用つかまり棒といふものなのですね?」と、わたしの答えをそのままなぞり、それが疑問文になっているので、おちょくられた気にもなるじゃないですか、ちょっとイラッとするものの、けふは特別の日、いや、毎日が特別の日なのだから、とおもいなおし、おだやかに「そうなのだよ、これは中国製の転倒防止用つかまり棒といふものなのだよ」と応答。犬、浴槽で泳ぐ。犬に背中を流してもらってから肩をマッサージしてもらふ。犬「お客さーん、キモチンよかとですかあ。延長しますかあ?」と訊く。爪が痛かったので延長しなかった。▼21日はエベレストにのぼらなかった。「アプザイレン」が校了した。サクッと。(2014/01/21)

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2014年1月20日の爆撃跡.JPG

・ざわざわして落ち着かない。読みさしのトマス・ピンチョンを繰ったり、書見台のブッツァーティをのぞいたり、ニュースとにらめっこしたり。「失業者、世界で2億人突破」の記事にはとくに打ちのめされた。18世紀産業革命後の一大事件として特筆されるべき世界史的なその内容もさることながら、日本の各メディアの①あまりのおどろきのなさ②あつかいの小ささ③視線の浅さーーに、したたかに打ちのめされた。わたしにとっては号外クラスのできごとだったのだが…。このぶんだと、戦争前夜でさえ、こいつらは他人事のようにエヘラエヘラ笑っているにちがいない。世界で貧富の差が拡大し、最富裕層85人の資産総額が下層の35億人分に相当するほど悪化したという。戦慄すべき富の集中。G-W-G'の基本になにか変化が生じたとはおもわない。ただ、G-W-G'の奥に、ひととして切実な関心をもつ者がほとんどいなくなった。儲け話、サクセスストーリーばかりだ。貧者と弱者と失業者への共感と抵抗、すなわち人間への興味を失った荒野には、なにもない。この国には、政権の知能程度にみあったマスメディアしかない。ずっとそうだった。けふエベレストにのぼった。(2014/01/22)

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無人電車.JPG

・4月下旬に神奈川県で講演をすることになった。まだ3か月も先のことである。はるかな未来だ。要請をうけるときに、いつも困惑することがある。いつからか「時間の連続性」を当然のこととして信じることができなくなったために、数か月も先のことについてOKと言うのがなんだか無責任におもえるからだ。時間の連続性とは、存在の連続性と言いかえてもよいのかもしれない。生きる主体、つまり、わたしという現象の継起については、せいぜいが2、3週間くらいのタームでしかイメージできない。3か月も先のことが、わたしの実存を引きつれて、疑問の余地なく、必ずやってくるとかんがえるのは、余人はいざ知らず、わたしにはどうも苦手である。2011年3月11日からそうなってしまったのかといえば、なるほど影響はしているのかもしれないが、じつのところそれ以前から、この癖はあった。では、2004年春に脳出血で倒れて以来の癖かと自問すれば、ふむふむ、それもあるかもしれないのだけれども、よくよくふりかえれば、2004年春以前から、わたしには時間の連続性へのつよい不信感があった、と正直に言わざるをえない。と、ぐだぐだかんがえているうちに、主催者から講演タイトルとメッセージを送るよう催促があった。本日締め切り。「なにかが起きている――足下の流砂について」を表題とすることにした。ブッツァーティの「なにかが起こった」のもじり。メッセージとともに連絡した。にしても、3か月先は遠い。なにが起きるか、世界がまだ在るのか、わかったものではない。まず死刑の執行。いまの政権の姿勢からみて、ぜったいにいやでも、「あり」の公算が大ではないか。そうなれば、内心の構えがまた揺らぐだろう。死刑こそ人間の時間の連続性を断つ国家犯罪である。むこう3か月のあいだに再び入院を余儀なくされる懸念も皆無ではない。そうなったら、主催者たちに迷惑をかけることになる。これらのほかにも、自他の存在にかかわる不可測的なできごとが3か月以内になにかしら起きないはずがない。それなのに、3か月も先の講演を当然の前提に生きるというのは、どうもしっくりとしない。けふはまったく外出せず。エベレストにもダフネにもミスドにも行かなかった。(2014/01/23)

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2014年1月24日に見た鉄の連鎖.JPG

・けふエベレストにのぼった。ヤマモミジの枝が顔をさえぎると、たちまち足がみだれる。つんのめる。エベレストの勾配よりも、ヤマモミジやシダレヤナギの枝のほうが明らかに難敵である。ダフネに行った。ダフネと言えば、ナポリタン。ピーマン、カイチュウ、サナダムシ。ずるずるすすっていたら、とても顔の大きな女性が入ってきた。茶のコートにロングブーツ。だが、コートもブーツもすぐに忘れる。顔に圧倒されたからだろう。ダフネに「顔」が入ってきた、とわたしはおもったのだ。とても顔の大きな女性はとても顔の小さな女性より、なんというか、ハッとさせるものがある。同居中の犬はとても顔が小さい。ハッとしない。目がわるいので、顔をよせていかないと犬の表情がよくわからない。もう少し顔が大きくてもよいのじゃないかとおもう。そこへいくってえと、顔の大きなひとは、入場シーンからしてその存在に目をひかれる。造作ぜんたいが、なんかゴージャスな感じがする。なぜだろうか。モリヤマカヨコというひとも顔が小さくはなかった。チンタレーラリルーラ、お屋根のてぺんでえ…。野球の本塁ベースみたいな顔。チンチンチンとおーつきさ-ま…。嫌いではなかった。でも、モリヤマカヨコの顔はもっと大きくてもよかった。チンタレーラリルーラ…お屋根のてぺんでえ、恋をするのーよ…。モリヤマカヨコの顔はもっともっと大きくてもよかった。もっとインパクト。もっと破壊力。もっと爆発力。それしかない。畳一畳ぶんくらい。もっと起爆力。マッジョーレ!わたしはそうおもっていた。あっ、顔大ブーツのひとがトイレに入った。おひっこか。でてきた。なんだ、小排泄のみ。おや、顔大ブーツ女もナポリタンを食いはじめる。ズルズルズルズル、サナダムシ。わたしとシンクロする。ズルズルズルズル、サナダムシ。ピーマン、タマネギ、サナダムシ。ベーコン、ピーマン、ナポリタン。わたしのパスタと顔大女性のパスタがつながっている。ずるずるずるずるナポリタン。チンタレーラリルーラ…。夜、歯をみがいていたら、テレビからまたフジワラキイツが飛びでてくる。唇が妙に赤くてキモい。脳天唐竹割りをおみまいしたら、かんたんに気絶した。就寝まへ、コビトから電話。「また下品なブログね。身体的特徴をあれこれ言ふのってサイテー。ダフネさんにもガンダイさんにもモリヤマさんにもキイッつぁんにもマジ失礼でしょ。講演主催者さんかてお困りよ。みなさんにお詫びしなさいよ!土下座さらさんかい、われぇ!」。そっか。キイツ以外の方々には、ほな、謝罪することとする。キイツは今度でてきたら、岩石落としだぜよ。(2014/01/24)

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2014年1月24日にダフネへの路上で見た謎の物質.JPG

・きのふのこと。ダフネに行く途中、路上で謎の物質(写真)を見た。隕石か、樹の苔か、だれかが故意に放置した放射性物質か、これは高く売れるか。いずれにせよあまり関心がもてず、消防にも警察に質屋にも連絡せず、その場をパスした。そのとき、わたひは、ビットコインも貨幣ないし資本なのかどうか、くゎんがへながらあるいていたのであった。 “To recap, it's is a purely online currency with no intrinsic value; its worth is based solely on the willingness of holders and merchants to accept it in trade.”というのが、面白いといえば面白い。intrinsic value(本源的価値)といったって、そんなもん、ビットコインにかぎらず、ドルにも円にも、なににもないっちゃ、ないんだから。本源的価値がないのは、価値じたいが「所有者の意思にのみにもとづく」からというのも、なにやら現代哲学じみて空々しくアイロニカルじゃないとですか。すかすぃだ、剰余価値を生むことで自己増殖する価値運動体として資本を定義するなら、ビットコインだって資本である。てか、国籍不明のビットコインこそ、資本(に憑依する人間)の妖怪じみた本質=倒錯を表象する。いまといふ時間は、資本の運動のみが異様に活発である。資本の運動はアナーキーである。それにともない、旧来の価値や共同幻想や「国家」は融けてきている。情報をふくむ資本の運動により目下、溶解させられているからこそ、それへの反動として、いま各所で国家主義、復古主義が息をふきかえしているのかもしれない。しかしG―W―G'は、国権のいかんによらず変わらない。そして「事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値の低下がひどくなる」は、まことに予言のとおりだ。人間世界の価値の低下は日々ますますひどいことになっている。人間はカスだ。♂カスor♀カスである。ゼンメン・ムナイヨー男キイツよ、どや、そなひおもわへんか?なにトーダイではそないなガクセツないて?ええわ、きさんタマないんやったら、そのヒョロヒョロした首洗ろて待っとけ、アホ。岩石落としかけたるで、楽しみにしいや。けふはエベレストにのぼらなかった。ダフネにもマックにもミスドにも行かなかった。(2014/01/25)

 

2014年01月14日
日録3

私事片々
 
2014/01/12~2014/01/18 
http://yo-hemmi.net/article/385145400.html

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ただ一度だけ息をするためだけに.JPG

・エベレストにのぼったか、のぼらなかったか、外出したか、しなかったか、憶えていない。視力がずいぶん落ちている。かすむ。ロキソニンのむ。(2014/01/12)

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LSVで見たヤマバト.JPG

・エベレストにのぼらなかった。犬をバッグにいれてミスドに行った。コーヒー、担々麺。食べているうちにまた歯痛。コロボックルがきて、犬がとてもよろこんだ。LSVをすこしだけあるく。ヤマバトをみた。『アンドレイ・ルブリョフ』前半部分をみた。映像すばらしいが、目がかすむ。コロポックルにディーノ・ブッツァーティのことを教わる。(2014/01/13)

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1月15日に撮ったボケの花.JPG

・エベレストにのぼらなかった。風邪、歯痛、かすみ目、気うつ。昨夜もロキソニン、フロモックス、PL顆粒、デパス、レンドルミン、降圧剤、プレタール、ムコスタなどバクバクのむ。コロポックルとフロモックスの名前混同す。ひどいかすみ目で「なにかが起こった」を読む。かるい興奮。物語の条件をすべて満たしている。つまり、世界とひとびとの、なにか暗ぐらとしたリアリティ(完璧な不条理)を、からまりあった古い鉄筋のように埋めこんでいる。驀進する列車にはいつも、〈われわれは目的にむかって逆走する〉という、ひとすじの普遍性がある。ファシズムなどという言葉をわざわざつかわなくても、われわれはファシストなのである。いやおうなくからめとられる。終着駅に着いて、北ゆきの超特急列車から降りたならば、「いまはもう、なにもかもが同じことだった。彼と墓のあいだを隔てるのは彼自身の死だけであった。すべてを諦めた彼は理性を備えた動物たちが住む、不条理で誤りに満ちた向こう側の世界から聞こえてくる、規則正しく打ちつける大粒の雨音を聞いていた」という、ありえぬことことになりかねない。もはや「主体」はなにとでも入れ替え可能な「没主体」にすぎない。これは文学ではない。現実である。いまはもう、なにもかもが同じことだ。(2014/01/14)

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1月15日に見たカラスの巣.JPG

・エベレストにのぼった。懐かしいとはおもわなかった。懐かしいとおもう感情に10年ほどまえからダメージを負っているらしい。じぶんにもエベレストにも、むろん、詫びる気にはなれなかった。エベレストにくる途中、冬枯れた立ち木にカラスの巣をみた。コビトによると、あれはいまつかわれていない巣なのだという。雛が巣立った使用ずみの空き家みたいなもので、またつかわれることはあるまい。産卵するカラスはオスのパートナーとともに新しい巣をつくるだろう。昨夏、わたしを襲ったカラスはおそらくあの巣を作った母ガラスにちがいない。と、れいによって早口になって、知ったかぶりをする。コロボックルは嘘つきである。それは当方とてそうでなくもないのでとやかく文句は言えない。コビトは、興奮すると、録音テープの早送りみたいに、ほとんど聞きとれないほど早口になる。ピキピキピキピキ…。母ガラスは、「脅威」と認識したら、巣を中心に半径20~100メートルの範囲では、攻撃してくる、あなたは「敵」とみなされたのだ、という。コビトは、わたしが「悪意の増幅」という面で、認知症患者のある種のパターンに似てきていると言う。そうなのだろうか。そうなのかもしれぬ。懐かしいとおもう感情に障害があるとすれば、わたしは時間感覚になんらかのダメージを負ったからだ、とは言えまいか。喪失を悲しみとしなくなることも、時間感覚を障害されているからではないだろうか。しかし、「なにかが起こった」に、わたしは揺すぶられた。列車。列車と逆方向に逃げてゆくひとの群れ。「この呪わしい列車は時計のようにきちょうめんに、敗走する味方の流れに抗してすでに敵が露営している自分の塹壕に戻ろうとする正直な兵士のように、進んでいくのだった」。「そしてその端然とした態度に、あわれな人間が抱く尊敬の念のために、われわれの誰ひとりとしてあえてさからえないのだった」(脇功・訳)。この風景に悲しみをかんじる。この風景に悲しみをかんじることができる。コロポックルとわたしは、いっけん趣味があう。だが、ほんとうにそうなのか。言葉と身ぶり。両者のかんけい。そのありようが、あたりまえではあるが、ちがうとおもう。言葉は身ぶりを誘う。言葉はかつて身ぶりを誘ったものだ。身ぶりは言葉に誘われる。ときとして誘われたものだ。コロポックルだけではない。みんながそうだ。言葉と挙措は、かんけいが依然あるものの、撓むか途切れるかしていて、もはや一対のものではない。それでよい。が、言葉と身ぶりのかんけいが、こうまで撓むか途切れるか反転しているかしていることを、もうすこし悲しんだり、うろたえたりしてもよかりそうなものではないか。政府が特定秘密保護法の運用について“有識者”から意見を聞くための「情報保全諮問会議」のメンバーを発表し、座長に渡辺恒雄が就任することになったという。こうしたおぞましい情報を浴びれば浴びるほど、怒れば怒るほど、わが身もおぞましくなっていくようにかんじられるので、ついつい耳目をふさぎ、口も噤みがちになる…ということについても昨夜コロポックルと話した。「それがやつらの付け目だね」と、わたしかコビトのどちらかがボソッとつぶやいたのだが、「やつら」とはなにか「付け目」とはなにかを吟味しはしない。そのかぎりにおいて、わたしとコロボックルだって、「なにかが起こった」の超特急列車の、もの言わぬ乗客なのだ。いまなにが起きているのかを手をあげて大声で問いもしない。列車を止めようともしない。どうすればよいのだろう。口を噤むことも、怒りくるうことも、「やつら」の存在認定(受容)にしかつながらないのだとしたら、ほんとうにどうすればよいのだろう。コビトには言わなかったが、こうなったら、ただ沈黙するのではなく、たぶん狂えばよいのだ。せめて行く先の仔細について、ひとり挙手して問うべきだ。ガルシンの「赤い花」のように戦い、なんどでも敗れればよいのだ。いまさら高踏ぶらないことだ。正気ぶらないことだ。わたしたちには、すでに、とんでもない「なにかが起こった」のである。いままさに起きているのである。そえれだけはまちがいない。列車はぜったいに行くべきでない場にむかい爆走している。〈困ったことです…〉などと言うのはもうやめたほうがいい。こうなれば、狂うしかない。なんどでも戦い、なんどでも敗れればよい。高踏ぶらないことだ。正気ぶらないことだ。言葉と身ぶり、そのかんけいに生じた〈鬆〉についてかんがえる。(2014/01/15)
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1月16日に見たflgwのキジバト.JPG

・新聞記者の友人(といってもわたしの子どもほど若いひとだが)がけふ、FLGWに会いにきた。インタビューでも取材でもなく、つまり、記事化とはかんけいなく、なんとなく話しにきた。犬をつれて西口のミスドに行く。肉ソバとクリームパンとコーヒーとアップルパイを注文。犬をバッグにかくして、クリームパンの切れ端をあたえた。店員がくると犬はさっとバッグにかくれる。特定秘密保護法成立以後の記者活動に変化はあるか、訊いた。まったくない、という。秘密保護法はもう社内でまったく話題にもなっていない。文字どおり既成の事実だという。あなたはどうおもうか、とわたしは反問された。わたしは、どうもおもわないよ、いい天気だね、と言った。犬がバッグのなかでゴソゴソうごいている。なにかもっとくれというのだ。麺を3本ほどあたえた。犬はツルツルと吸いこんでから満足したらしく寝はじめた。歴史的できごとというのは、実時間ではそれと実感されがたいものだ、という意味のことをわたしは話した。いまは、のちの年表にゴッチックで記されるだろう画時代的時期だけれども、そうはかんじられていない。盧溝橋事件のころもそうだったらしい。1925 年(大正 14)の治安維持法制定のころもそうだった。実時間では命がけの反対なんかほとんどなかったらしい。とりわけマスメディアは事態を煽るか政府の片棒をかつぐばかりで、必死の抵抗などまったくなかった。治安維持法はその後、反政府・反国策的な思想や言論表現弾圧の口実として大いに利用されたけれども、メディアの側には痛苦な反省はついぞなかった。なぜなら、メディアというのはつねに生身のない「わたしたち」「われわれ」であり、切れば血がでる生身の「わたし」ではないからだ。1937年(昭和 12)7月7日の盧溝橋事件が、45年8月15日、日本の無条件降伏にいたるまでの日本と中国のきわめて長期的な戦争になる、日本がアジア各地で大殺戮をおこなう、あげく太平洋戦争にまで絶望的に拡大してゆき、東京大空襲、ヒロシマ、ナガサキの地獄を結果する…とだれが実時間に予感しえたか。だれが責任を負うたか。ぶつぶつとわたしはつぶやいた。その記者にはすでに話したことのあることばかりだった。店のそとでカラスがわめいている。市の職員だろうか、立ち木からカラスの巣をたたき落としているからだ。カラスは1匹2匹ではない。10数匹があつまって抗議している。悲嘆と怒りがおりなす、ただごとではない声だ。あちこちの黒い顔がみなひとつの方向をむいている。目と鉄のような嘴が、壊された巣と壊した男にむかっている。カラスたちにはなにかやむにやまれぬ暴力のようなもの、デスペレートな覚悟のようなものがみなぎっている。ぬきさしならないできごとが店のそとで展開している。べつの男が空のカラスにむかい棒のようなものをふりまわしている。記者が「ちょっと…」と言って立ちあがり隣のコンビニにゆき、朝日新聞を買ってきた。自動ドアがひらいたとき、「ギャー」というカラスの絶叫がじかに耳にとびこんできた。記者は社説をみてほしいという。「欠陥法の追認はするな」という見出しだった。「情報保全諮問会議」が17日に初会合を開くことにむけた社説。「議論によって(特定秘密保護)法の欠陥を根本的に改めることは難しい。それでも、秘密が限りなく広がることに一定のブレーキをかけることは重要だ。メンバーにはその役目を自覚してもらいたい」と述べ、「…政府の行き過ぎに歯止めをかけるべきだ。政府の方針を追認するだけに終わっては意味がない」という。わたしはあくびする。社説にはなんの緊迫感もなかった。記者がうすく笑った。カラスが鳴いている。社説は言う。「私たちは社説で、この法案は廃案にすべきだと主張してきた。以下の理由からだ。/本来は国民のものである情報を、首相ら『行政機関の長』の裁量によっていくらでも特定秘密に指定することができる。秘密の内容を検証する独立した機関はなく、何が秘密に指定されているのかさえわからない。指定期間は最長60年で、それを超える例外も認める。/…このまま施行されると、膨大な情報を行政府が思うがままに差配できる。それでは国民の判断を誤らせ、やがて民主主義をむしばんでゆくだろう」。またあくびをする。「やがて民主主義をむしばんでゆくだろう」だと。とっくの昔に民主主義はむしばまれているではないか。社説は「情報保全諮問会議」成立のまことにいかがわしいプロセスや、座長に、もともと秘密保護法の積極擁護論者にして改憲論者そして元インチキ共産党員にして旭日大綬章受章者・渡辺恒雄が就任した、露骨なデキレースについて一言も批判していない。読売とナベツネへの配慮、忖度、おもいやり、諂いがれきぜんとしている。廃案にすべきだと言いつつ、そのじつ、秘密保護法を追認しているのがほかならぬこの朝日社説ではないか。これがこの新聞(とそれに代表される世論の)どこまでも卑劣で空しいロジックだ。「私たちは社説で、この法案は廃案にすべきだと主張してきた」という、その「私たち」とはいったいだれなのだ。ひとりびとり名を名のらなければならない。「私たち」とは何者かを証さなければならない。主体の所在と生の声を列記すべきだ。ぬけぬけと「この法案は廃案にすべきだと主張してきた」というのなら、なぜ毎日、一面でその旨を倦まずたゆまず主張しないのか。なぜ全社および系列各社あげて秘密保護法廃案にむけて生身で行動しないのか。わたしは記者になにも言わなかった。記者はつぶやいた。「ほんとうはですね、なにもないのです。ルーティンワークだけ。なんにもない。それが真犯人だとおもいます…」。わたしはメディアによってたえずつくられている「リミナル(liminal)な時空間」ということをボンヤリとかんがえていた。閾値とはなにかを。そこにいつの間にか、当然のように形づくられてゆく集団的記憶。抗えない集団的記憶。戦争は可能である。戦争はいつかほんとうに可能になる。リアルになる。気がついたとき、おびただしい血が流れているだろう。カラスがまだ鳴いている。犬が寝ている。エベレストにのぼらなかった。(2014/01/16)

SOBA:辺見さんが直接言及していませんが、戦争関連動画として「カラーでよみがえる第一次世界大戦」3部作を末尾でアップしておきます

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2014年1月17日に撮った路面の花.JPG

・電車にのって眼科へいく。凍えた無人の街。ファドが低くながれている。「暗いステージの上で/パラ―ラが/死と/会話している。/彼女は死を呼ぶ、/死はこない、/そこで 人びとが死をもう一度呼んでみる…」。黒衣の、気のふれた女(死者)に散瞳薬を点眼される。「おまはん、サンドウヤクをテンガンするぜよ…」。光が爆発する。燦爛たる光のドームが死界とつながる。熱帯魚が開いた瞳孔を往き来する。カラシン、ティスカス、アナバス、コリドラスたちが、黄金の光とともに。「やめでけろ。やめでけれ。やめでけさい。やめでけんちょ!」。わたしは懇願する。街にはクリスマスのイルミネーション、夜空には曳光弾、駅には硝煙、瓦礫。左右の目に真っ赤なオレンジドワーフグラミーを1尾ずつはさんで、ゾンビあるきであるく。死者の腹を踏んで。オレンジドワーフグラミーは性格穏和で、カラシン君やひいちゃんたちとなかよく混泳できるので、もんだひないひです、とじぶんに言いきかせて、ゾンビあるきして電車にのる。死者たちで満員。生きているのは狂人だけ。わたひ、車内のみなさまとすぐに同期しちゃう。目のなかで熱帯魚があばれる。なにが性格穏和なもんか。赤い尻尾がペタペタと目からとびてて、かっこうわるひ。目えが、えろ魚くさい。といふわけで、エベレストにのぼらなかった。(2014/01/17)

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2014年1月17日に瞳孔散瞳後に撮った熱帯魚.JPG

・きのふ、散瞳薬を点眼されて瞳孔の散大を待つあいだに病院の食堂で食べたホットサンドウィッチがものすごくうまかった。パンも卵もあたたかで、ああ、おいしいなあ、なんて贅沢なのだらうとおもった。わたすぃ、はからずも、特段の用もなくここまで生きてきて、ホットサンドウィッチを食べたのは、じつにはじめての気がするのだす。わたひは薬物によって目の副交感神経の作用を、たぶん、末端で遮断されるかなにかしていた。瞳孔散大(対光反射消失)、呼吸停止、心停止という死への3大要素のうち、瞳孔散大をしながら、じぶんはこうして静かにひと皿のホットサンドウィッチを食っているのであるなあ…とおもうと、なぜかとくにおいしいとかんじた。すかすぃ、コーヒーとサラダつきで1000円はけっして安くはないので、お金のないひとには申し訳ない、というかんがえがチラリと胸をかすめたが、偽善的でもあるその申し訳なさが、ホットサンドウィッチのうまさを一気にそこなうのではなく、むしろ逆であったことが、なにかストレートに残酷なこと、この世の合理的非情さのようにもおもわれるのであり、そうしたモヤモヤを整理することもできないまま、ホットサンドウィッチは、わたしぃによりペロリと完食された。家にかえると、犬が馬のアキレス腱(Sサイズ)をまえに、前肢をそろえて伏せをして、長さ15センチほどのそれを、まるでじぶんの赤子でも見守るようにしていた。わたひが近づくと、ウーウーと攻撃的うなり声をもらし、アキレス腱をあくまでも守ろうとするので、なにか事情があるのだらうとおもひ、ほうっておいた。わたひの瞳孔はまだひらいている。手探りでリモコンにさわり、時間を知ろうとテレビをつけたら、カンサンジュンとフジワラキイチがニマニマ笑うてとびだしてきたので、前者はウェスタンラリアット、後者には、いうまでもなく反則ではあるが、金的蹴り(キンタマが1個もなひのに金的蹴りとはこれいかに。股間蹴りに訂正)をくわえて、それぞれ1発で倒した。両人とも口から泡を吹いた。瞳孔散大状態にしては、ま、上出来だった。犬はあれほど大事に見守ってきた馬のアキレス腱を、深夜になってから突如ムシャムシャとしゃぶりはじめた。けふは105円のクリームパンなどを、犬といっしょに食べるなどして、エベレストにはいかなかった。(2014/01/18)

  

完全版 1★9★3★7 イクミナ (上) (角川文庫)
完全版 1★9★3★7 イクミナ (下) (角川文庫)です。


  

辺見庸さんの『増補版1★9★3★7』と、
堀田善衛さんの『時間』(岩波現代文庫)です。 


  

辺見さんの『1★9★3★7』(イクミナ)です。 


  

 辺見さんが私事片々(2014/01/16)で戦争について言及しているので、関連で「カラーでよみがえる第一次世界大戦」3部作をアップしておきます。

2014年5月6日放送
カラーでよみがえる第一次世界大戦
第1回 人間性の喪失(The Fall of Man)

世界大戦と人間①
fanfunful
http://www.dailymotion.com/video/x245tje_

世界大戦と人間① 投稿者 fanfunful
公開日: 2014年08月21日
期間: 48:54

 

2014年5月7日放送
カラーでよみがえる第一次世界大戦
第2回 際限なき殺戮(Purgatory)

世界大戦と人間②
fanfunful
http://www.dailymotion.com/video/x245tp9_

世界大戦と人間② 投稿者 fanfunful
公開日: 2014年08月21日
期間: 48:54

 

2014年5月8日放送
カラーでよみがえる第一次世界大戦
最終回 総力戦の結末(The Battle of Nations)

世界大戦と人間③
fanfunful
http://www.dailymotion.com/video/x245x68_

世界大戦と人間③ 投稿者 fanfunful
公開日: 2014年08月21日
期間: 48:30

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