辺見庸 (日録5)私事片々 2013/11/22〜と、(日録6) 雑談日記Archive
辺見庸さんの(日録)私事片々の雑談日記Archiveを始めようと思ったメモなどはこちらで。辺見さんがよく言う「エベレスト」についてはこちらで。
以下、辺見庸ブログの(日録)私事片々をすべてアーカイブ保存しておきます。写真が多いので、2エントリーずつアップします(表示順は元ブログと同じく上から降順です)。
以下、日録の6と5。
2013年12月01日
(日録6)
私事片々
2013/12/01〜2013/12/10
http://yo-hemmi.net/article/381657609.html
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(※)SOBA:草冠に心を三つ書いてから木。蕊の俗字。音読みは「ズイ」、訓読みは雄蕊や雌蕊の「しべ」。
・けふも外出せず。よって、2日つづけてエベレストにのぼらなかった。午後、北京から国際電話があった。コビトだった。やや緊張気味の声。防空識別圏設定のからみで飛行ルートが変わったからだろうか、飛行機が予定より早く北京に到着したという。もう要人に会ったか問うと、もったいつけて「会ったとも会わなかったとも言わなひことになっているの・・・」。なにを話したのかとさらに問いつめると、先方は「口数の少ないひとの話に耳をかたむけたほうがよひ」と、コビトにサジェストしたのだといふ。裏をかえせば、中国側が無内容なお喋り男たちをきらっている、という意思表示ともとれなくはないか。口数の少ないひととはだれか?意味深。だが、ヨーグルトの蓋の裏に書いてあるていどの、くだらぬ箴言のよふな気もしてくる。これが具体的になにを意味するのか、会談相手は習近平かーーとクララにたたみかけて訊いている途中で、やはり公安機関に盗聴されていたのだろう、電話が切れた。(2013/12/01)
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・2日ぶりにエベレストにのぼった。崖はけふ、明らかに険しくなっており、眼前に、あまりにも唐突にきりたっていた。わたしはおそれた。麓の右のベンチに男、左のベンチには女がひとりずつすわって、弁当をたべていた。それは無声映画であった。じつに何事もない。まったく何事もなひ。見たところ、どこにもひとの脳漿も肉漿もちらばってはいないのだもの。ここには1匹の海胆もいない。1枚の海星さえも。ただ肉色の、やわらかな陽ざしがあるのだ。そう見えてしまふのだ。悦ぶべし。ダフネに行った。老いつくした死人たちが、みなでズルズルと音たてて、ナポリタンを食べているのだ。ずるずるずるずるずるずる・・・。ときどき、かなたより、あの「絨毛の生えた声」が聞こえてくる。はるか遠くから、怖ろしく滑らかな、うめき声が。まるで没食子のやうな時間が、ここダフネにはとどこおっている。いいじゃないか。わたしら、老いつくし、嘘つきつくし、ほどなく死につくすのだ。(2013/12/02)
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・いまはなんの季節だろうか?いまはまさにどんな時候なのか。やむをえず声をあらげるべき季節ではないのか。余儀なく、あたうかぎり大きな声で吠えるときだ。いまは、からだのもっとも深い底で、いまここにこうして在ることの恥を、ザクリザクリと刻むべき季節ではないのか。いまはさて、なんの季節か。この季節の埒もない移ろいを、やすやすとゆるしてしまったことを、皮裏深く悔いるべき季節ではないか。辱めをわがからだに彫らなくてはならない。平刀で三角刀で鑿で烏口で。いまはどんな季節だろうか。 口から首へ、首から胸へと、肉をぬちゃぬちゃと腐らせ、骨をもろもろと崩していきながら、もうたまらず愧死してもよい季節ではないか。いまは正直どんな季節だろうか。あの底なしの阿呆どもにあらがい、あらがうということの、途方もない徒労と、それを徒労とばかり思い込んできた狡猾な錯視と徒労のくりかえしに、しばらく耐えるべき、じつにかくべつの季節ではないのか。おもえば、あまりにしたたかに惨めなのである。しかし、いまはそういう季節なのだ。たったあれしきのことをおまえが「テロ」と呼ばわるのであれば、おおさ、血も凍るテロリズムをおまえたちこそが着々と用意していることを、これから諄々とおしえてやろうではないか。いまはどんな季節だろうか?ずるっと戦時がきたのである。秘密保護法を、たとえ採決されても、みとめてはならない。けふはエベレストにのぼらなかった。(2013/12/03)
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・これはとうの昔から言われていることなのである。「産業文明の最も進んだ分野に姿をあらわしている、全体的動員の社会は、福祉国家と戦争国家の特徴を生産的に統一する」。これが「新しい民主主義社会」であり、伝統的な紛争源は除去されるか隔離され、社会を分裂させる諸要因はたくみに制御されている。学問研究、教育、報道と国策の予定調和が助長され、私的であるべき家庭が、おそろしく愚かしく、かつ遍在的な世論におかされ、監視され、干渉され、ベッド・ルームまで国家権力に開放されてしまうこともまた、全体的動員の社会の特徴である。政治的には、これらが、対立する立場と思考のいちじるしい一様化としてあらわれてくる・・・という。いちいち首肯せざるをえない。これは、猫なで声をだしながら、ひとをじょじょに絞め殺す社会だ。とすれば、呼ばれても返事をしないこと。数時間なにもしゃべらないこと。身のまわりのすべてを、とどこおらせること。ミニマムの単独ストライキはそこからはじまる。できれば、まえぶれもなく各所で殴りあいが発生するようにすべきだろう。いま、ひとは抑制せずに、もっと大胆に痙攣し発作をおこしてよいのだ。「戦後史上もっとも無知で愚かな政権に支配されていることの恥と屈辱」という表現は、まったくまちがってはいないものの、全体的動員社会の悪尻、悪だくみ、悪臭さにくらべれば、ナイーブで紋切り型にすぎる。秘密保護法をわたしは永遠にみとめない。秘密保護法のある、戦争を前提し、もっぱら戦争の脅威によりつきうごかされ収斂される、いびつな社会の究極の未来像は、この法案の策定者らにさえまったく見とおせていない。見とおす知も感性も理念もない。なぜならこの政権は、戦争国家実現のために無類の愚者だけがあつまった「無思考マシーン」だからだ。怖気だつべきである。けふはエベレストにのぼらない。マックにも行かない。コビトのクララが、北京の建国門外で、つがいのカササギを見たという。(2013/12/04)
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・この右翼ポピュリズム圧勝のつぎには、どんな風景がまっているのか。民衆(demos)はどこにうごいていくのか。われわれは民衆か。民衆はわれわれか。わたしは「われわれ」か。で、「腐れた民主主義の民主化」はありうるのか。おもう。「腐れた民主主義の民主化」は、ない。この社会では、右翼ポピュリズムが(貧困者や弱者をふくむ)ひとびとのフラストレーションにつけこんでいくためのあらゆる条件がいま、ほぼ整いつつある。弁才あるデマゴーグたちが今後ますますのさばり、はびこるだろう。左派/右派の境界と対立点は、いよいよあいまいで希薄なものになるだろう。わたしやあなたは日々に、なにか語ろうとする意思に明瞭な発語のともなわない、擬似唖者と化しつつ、たちあがってくる光景に目をみはり、ただ絶句するであろう。右翼ポピュリズムは民主的で集合的で合法的なテロルと少数派の排除にのりだすだろう。足下ではげしい流砂がおきている。来週以降、年末までに、また絞首刑の執行があるかもしれない。けふ、わたしはエベレストにのぼらなかった。(2013/12/05)
SOBA:辺見さんが上記言及しているポピュリズム関連の動画「BS世界のドキュメンタリー ヨーロッパ 台頭するポピュリズム」を末尾でアップ。
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・けふ、エベレストにのぼった。1回だけ。スタバ駅前店で低脂肪ラテを飲んだ。とてもまずかった。はすむかいの席に、若くてきれいで、いやみがなく、すこしソバカスのある幸せそうな女がいて、若くてまあまあきれいで、いやみもソバカスもない幸せそうな女と、サンドウィッチを食べながら、犬の歯磨き指導をしている親切な獣医さんの話をしていた。テーマはつぎにヴァイオリンのレッスンの話に移った。わたしは「イシチドリの夜」を読んでいた。わたしは朗読したくなり、低い声で朗読した。幸せそうな女たちとおなじくらいの声量で。なのに、ゆで卵みたいにペロリとした顔の男の店員に「お静かに・・・」と注意された。さほどに不当ともかんじなかったので、わたしは「すみません。朗読やめまふ」とわびた。ゆで卵が笑った。延髄切りをきめたろかと一瞬おもったが、おもいとどまって、わたしもわろた。ヨイヨイあるきでアパートに帰るとちゅう、若くてきれいで、意地悪く探そうったって、とくにいやみのない2人の女たちのことをおもった。不思議だった。悪意についてすこしかんがえた。尺八にかんしてもちょっとだけ。「犬の尺八指導」というフレーズが浮かんで消えた。あの女たちともう2度と逢うこともあるまい。わたしはなにか軽いショックをうけていた。(2013/12/06)
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・エベレストにけふ、自己目的的にのぼった。エベレストにのぼることだけが、いまのわたしの目的とつよく意識して、のぼったのよ。麓では婦人がひとり、落ち葉を箒で掃き、集め、袋につめていた。何度も無言でおなじことをしていた。枯れ葉はいっこうに減らない。落ちてくる。飛んでくる。婦人はわたしを視なかった。からだのなかの薄赤いイトミミズが1匹その身をちょっとくねらせた。ちぎれた言葉が1行だけ浮かんだ。「死に囲まれて生きている。からだは、生よりむしろ死のなかにある」。出所不明。いま逢いたいひとをかんがえた。いくにんかなぞってみたのよ。とくにいなひ。あるきながら、「日章旗たつ。日章旗ひるがへり。日章旗へんぽんたり。万歳。万々歳」と、草野心平をとなへてみたのよ。すると、あーらふしぎ、ビ・ビ・ビーンとエレクトしてきた。さらに、「御稜威赫赫たり。御稜威燦然たり」と、またも草野心平を誦するわたしなのであった。それではあきたらず、金子光晴を吟じつつ、〈歩き勃起〉させてみたのよ。「戦はねばならない 必然のために、勝たねばならない 信念のために、一そよぎの草も 動員されねばならないのだ。ここにある時間も 刻々の対峙なのだ。なんといふそれは すさまじい壮観!」。さらに、さらに、金子光晴が「湾」に傍題した「永遠の平和に安らふ民あらんか/そはただ堕落の外なかるべし ヘーゲル」の文言を、われながら荘厳に唱え終へてのち、かしこきあたりにむけて、深々と一礼し、回れ右して、一発屁をぶっこいてみたのよ。祝砲である。礼砲である。万歳、万々歳! (2013/12/07)
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・昼前、レストラン・コスギの自動ドアの真ん前で、背がとても低く、顔のすごく大きな男に突然「気をつけて!旦那、気をつけてねぇ!」と大声をかけられた。通りじゅうにひびきわたる、あまりにも明瞭な声であった。通行人がふりむいた。男の顔はわたしの股のあたりにあった。わたしは下にむけて「はい、どうも・・・」と口ごもった。男は、まるで長年の知りあいのように、股の高さで笑っていた。それは、べつにわたしの身を案じている表情ではなく、なんだか楽しげでもあった。その皮膚一枚下に、暗く傷み、いじけた窪みと影が透けて見えた気もしたけれども、おもいちがいかもしれない。よく見ると、かれの顔はすごく大きいのではなく、低い背丈に比せば、そうなるだけのことなのであり、わたしの眼の錯覚なのであった。いずれにせよ、わたしはけふ、不意に何者かに「かかわられた」のである。かかわられてしまった。オムライスを食いながら、これはどういうことか、とかんがえた。数日来、「かかわり」についておもいまどっている。昨夜も映画『サラバンド』を見ながら、つくづく「かかわり」の「いたしかたなさ」「逃れられなさ」をおもった。状況(Situations)は、それに意思的にかかわろうが、愚劣なそれから逃げようとしようが、結局、あちらのほうから、おかまいなしにかかわってくるものなのではないか。状況から「撤退」した気でいても、撤退など永遠にできはしない。「彽徊趣味」などいまはありえもしない。断じて望まない状況に、じぶんも揉みこまれていくほかないだろう。わたしはいま、だれに会いたいのか、けふもかんがえる。もちろん故人もふくめて。けふはとくに机龍之助ら小説の登場人物たちも追加してみる。ハハハ・・・。やはり、億劫だ。ひとと会うのは面倒だ。帰り道、こころのなかで勝手にマルホランドDR.と呼んでいる通りで、紺色のコートを着た、背がとても低い女性とすれちがった。実際にはそうでもないのだろうが、顔がなにか憤然として見える、身だしなみのよい婦人だ。夏にもサルスベリの下ですれちがった。怒った顔で、日傘を高くもちあげるようにさして、カッカッカッカとあるいていった。どこからきて、なにをしに、どこに行くのか、わたしにはさっぱりわからない。ただ、このわからなさに、かえって心がうごかされる。状況がほんとうはよくわからない。その脈絡のなさ、意味不明にたいし、無理矢理に古いストーリーと世界観をあてはめようとしているようにもおもえる。「状況は危険だ」と言う者たちの定型のイメージとお定まりの想像図より、Situationsははるかに悪い——と、わたしはかんじている。いま、盤石で厳然とし、変わらざる法則はたったひとつしかない。資本の休みない運動だけである。それ以外の現象はアルルカンの服のように派手だが、とりとめがない。アルルカンの衣装など非難してどうするのだ?混沌として、まったく無秩序な現実世界を眼前にして、できあいの平板な社会観を使いまわし、状況と人生を陳腐な物語=言語と化してしまう「思想のとてつもない怠惰」が、ひとを内心の深みで失望させ、重篤の事態をいっそう「なんでもなく」見せて、どうじに、思考をこれ以上ないほど不活発にしている。いまは資本と権力のみが健やかにしなやかに躍動し、ありったけの病菌をまきちらしている。『サラバンド』を見ているとき、再び気がついた。この映画には、人里はなれた場所とはいえ、passerbyがひとりもでてこない。当事者しか登場しない。不自然といえば不自然である。社会・政治的Situationsは一見なにも関係なさげである。しかしながら、それでよいのだと納得させられる。わたしもあなたもpasserbyではなく、現在のこの場面の当事者なのだ。ひとであることそれじたいが、ほとんどたえがたいほどにいびつで、論理的・倫理的整合と統一性を欠き、その生と老いと死が、物語ではなくして、ひたすら「反物語」だけを紡ぐものであることを、どのような人間ドラマよりも深く得心させてくれる。結論はない。あの映画に流れる無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調第4曲は、Situationsの奥底をただよう、だれにも聞こえない暗い川の音である。腐れゆくからだの泣き声である。人間こそがSituationsなのだから、Situationsのうわっつらなどを、うそ寒いおもいをして語るのでなく、一枚のたわんだ不条理の影のみをじっと目で追い、見つくし、描きつくすほうがよい。というか、それは許されるのだな、それはありうるのだなとおもふ。けふもエベレストにのぼった。麓にひとはいなかった。アパートに帰ると、1階ロビーで子どもが父親に「ムジンレッシャ・コワイヨ。ムジンレッシャ・コワイヨ・・・」とうったえていた。(2013/12/08)
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・けふ、エベレストにのぼった。とても小さなひとにまた逢うかとおもったが、逢わなかった。冷蔵庫用キムコを2個買った。熊よけ用の鈴を注文した。クララが髪型をかえた。『サラバンド』にかんするあるレビューを読み、げんなりした。ベルイマンがついに“神”と和解したのだという。エンドクレジットとともにオルガンコラール「人はみな死すべきさだめ」が流れるのが、「和解」とみる理由らしい。永く不在とされてきた“神”と、いまさらどうやって和解するのか。ベルイマンは、バッハを聴きつつ、最期の最期まで瀆神しつづけた。いわば、最期まで罰当たりをやめようとしなかった。予定調和を執拗なまでに拒みつづけた。戦闘的ですらあった。とことんぶれなかった。反世界的でもあった。なぜそう書けないのだろう。作品中ヨーハンが大音量で聴きいっていたのは、ブルックナーの未完の交響曲第9番だった。評者はこれをもブルックナーの「信仰告白」と言い、ベルイマンの〈“神”との和解〉説の傍証とする。評者はたぶん、そうであることを願い、わたしは逆に、そうではないことを願う。「神?容認された、公認の精神錯乱」と書いたシオランは、おそらくベルイマン作品をみたことがあるだろう。「海としての神と光あふれる領域としての神は、私たちの神的なるものの経験のなかで入れ替わる。だがいずれの場合においても、唯一の目的は忘却であり、取りかえしのつかぬ忘却である」と言いつのるシオランの指摘は、いまでも正しい。「取りかえしのつかぬ忘却」についてもっとリマインドしなければならない。「政治には進歩がない」「人間のつくる共同体の奥底には、まったく意識されない反復的な構造がひそんでいる」「政治の領域ではすべてが危うい」「共同体の構造的掟というべきもの、暴力の回帰的性格」・・・とR.Dは言った。「まったく意識されない反復的な構造」とは、具体的には戦争へとむかう欲動と言いかえてもよい。R.Dは「政治に狂犬病予防ワクチンは存在しない」とも述べた。そのばあい、政治は、もはや「他者の悪事」一般ではなく、「わたしたち」をふくむデモス(demos)を指嗾し、デモスの欲情として正当化されるだろう戦争への言い訳にすぎなくなる。「取りかえしのつかぬ忘却」は、最初に政治においてあらわれ、マスメディアをおおいつくし、「正気」と見まがう狂気へとデモスをみちびく。〈憶えていること〉は悪事と見なされるだろう。〈憶えていること〉にいつまでもこだわることも反社会的行為と分類されるだろう。不可逆的なテクノロジーの日進月歩と、政治のかぎりない退行が合体されてできた、〈現在〉という恐るべきSituationsを、いまを生きざるをえない個人はどうイメージすればよいのか。あがいてもこの〈現在〉から離脱することはできない。昨夜、ひとに言われ、NHKスペシャル「日米開戦——知られざる情報戦」を見た。太平洋戦争という巨大な過誤を、総合的、立体的、歴史的に見つめなおし、〈現在〉につなげて痛苦に内省するのではなく、情報戦というテクノロジカルな視線からのみ強引かつ平板にまとめあげた番組。これは安倍政権の“眼”(検閲)を意識した、「取りかえしのつかぬ忘却」にもとづく、フィクショナルなドキュメンタリーだ。米英のように「強力で正しい諜報活動」と防諜をやれば、あの開戦が防ぎえたとでもいうのか。日米開戦までの侵略戦争はよかったとでも言いたいのか。ばかな。NHKはこの番組で結果的に特定秘密保護法の必要性を大いに宣伝・啓蒙したこととなる。西山太吉氏らが参考人として出席した国家安全保障会議設置法案にかんする参院の国家安全保障特別委の参考人質疑をNHKは故意に中継しなかった。秘密保護法案を集中審議した衆院特別委の中継もしていない。NHKは安倍政権統制下の「機関」と化している。それでも摩擦はない。ほぼ円滑である。航空自衛隊のジャンパーを着て「戦争ごっこ」よろしくはしゃぐ防衛大臣。あまりに軽い。浅い。平たい。薄い。ひしゃげている。子どもっぽい。〈現在〉という恐るべきSituationsから逃れるすべはないのか。(2013/12/09)
SOBA:辺見さんが上記文中で言及しているNHKスペシャル「日米開戦——知られざる情報戦」を末尾でアップしました。
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・午後、ダウンジャケットを着て、雨のやみ間をぬってエベレストにのぼった。パトカーが1台とおりすぎた。ダフネにいった。ミートソースを食す。ダフネをでてから、マルホランドDR.にいき、水たまりの写真をとった。うまくいかなかった。一昨昨日の電話の声をおもひだした。不意の電話だった。婦人の。声に太すぎるほどの芯があり、堂々とし、とてもはきはきしているので、たじろいだ。中身ではなく、声の明確さ、明白さに困惑した。今日、言葉が白昼こんなにも堂々と明確に話されている世界があるのだ。そうおもい、心底度肝をぬかれた。そういう世界の、声に毛の生えた、堂々たる住民が、よりによって、わたしに声をかけてきたこと、〈あちら〉と〈ここ〉がつなげられたことが信じられなかった。〈犬の歯磨き指導をしている親切な獣医さん〉の話をしていた、美しく幸せそうで嫌みのない女たちの声を聞いていらいのおどろきである。なにか収拾がつかなくなる。どうしてよいのかわからなくなる。じぶんの声が消える。きのふだったか、友人がメールをよこした。「“犬の尺八指導”ってどういう意味でしょうか?」。返事しなかった。詩は「書くまい」とする衝動なのだ、とかなんとか、物故した詩人が言ったことがあったな。父は、ほどなく死のうというのに、「死にたい・・・」と死の床でつぶやいたらしい。その場にわたしはいなかった。ことごとく整合しない。「ぼくらはいま、みずからの生を独立した全的な宇宙としてもちうるような、そんな幸福な時代に生きているのではない」と中平卓馬が書いたのは、もう40年もまえのことだ。「世界はすでに膨大に肥大化し、その透明なトータリティを飛散させてしまった」。そして、世界なんぞとうになくなってしまったのだ。立川談志の艶笑落語をむかし新宿で聴いたな。1時間のほとんどを、廓における客と女郎のセックスの音の再現だけについやす、いまではとてもかんがえられない落語だった。談志は憑かれたように、狂ったように、吸引、挿入、抽送、こすれ、あえぎ・・・をおのが「声」で全身全霊をこめてだしつくした。壮絶であった。廓中のありとある肉と粘膜の音を、談志ひとりの口で再現するのだから、笑いをとおりこして狂気の域へとかけていく凄みがあった。ひとという存在の奥の音、その千変万化・・・にうたれた。声と音がまだ生きていた。肉のぶつかる音があった。くらべるもおろかだが、昨日の安倍首相の記者会見。この男が発する緩慢な死の声。「秘密が際限なく広がる、知る権利がうばわれる、通常の生活がおびやかされるといった懸念の声もいただきました。しかし、そのようなことは断じてありえない。いまでも政府には秘密とされている情報がありますが、今回の法律によりいまある秘密の範囲が広がることはありません。そして一般の方がまきこまれることも決してありません」。機密をにぎる権力者が、今後機密事項を際限なく広げ、知る権利をうばいます——と言った例は歴史的に当然いちどもありえず、安倍とおなじせりふを唱えて、国家は秘密事項を際限なく広げ、知る権利をうばってきたのだった。然して、「一般の方がまきこまれることも決してありません」という、無教養まるだしのファシストの言いぐさはどうだろう。この世に「一般の方」などひとりもいはしない。社会の内部に緩慢な死がしのびこんできつつある。安倍にはファシストなりの歴史的覚悟さえない。小心者の眼が宙を泳ぐようになった。気の小さなファシストは危うい。短絡がつづく。わたしは特定秘密保護法をだんじてみとめない。(2013/12/10)
2013年11月22日
(日録5)
私事片々
2013/11/22〜2013/11/30
http://yo-hemmi.net/article/380881368.html
黄色い阿呆.JPG
・クローゼットで目ざめた。コビトはいない。ガガに問うと、コビトはミスドでバイトしているらしい。わたしはけふもエベレストにのぼった。山頂でひとつ深呼吸したら、麓のベンチにいた若い女があわてて逃げるようにたちさった。咲いているのや腐っているのや腐りかけているのや、黄色や白の、ダチュラを見た。どことなくだらしのないダチュラが好きだ。「戦争ハ国家ノ救済法デアル」という言葉を急におもひだす。「戦争ハ国家ノ救済法デアル」。出典不明。「戦争ハ国家ノ救済法デアル」。悔しいがコビトに聞くしかない。ミスドに行く。コビトがコビト用の箒で床掃除をしていた。縞々のミスドTシャツを着ている。ビックリした。知らぬ間にクララがおかっぱを茶色に染めていたのだ。聞きたいことがあんねん、と声をかけると障害者用トイレで待てというので、そうしたら、コビトがやってきて「勤務中にこないでよ!」と念波で大喝され、「で、おしえたらなにをいただけるのかしら?」ときた。カフェ・ダフネのシフォンケーキを約束。出典を知ったとて、じつは大した意味はなひのだが・・・。クララによれば、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」は、ジョン・ドス・パソスの「U.S.A」第2部「1919年」に、ランドルフ・ボーンの言葉としてでてくるらしひ。So、what? クララの手前もあり、ミスドでコーヒーを飲む。おかわりする。マクドのコーヒーよりずっとましだ。ふむ、スタバよりもよひかもしれぬ。といふ区別とちっちゃなヨロコビで、わたしたちの日常は容易に骨抜きにされ、気がつけばとっぷりと日が暮れているのだ。にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだらうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!ファッキン神道政治連盟国会議員懇談会よ!安倍よ!森まさこよ!ハグせよ!いてまへ!まぐわへ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!ファッキン・タハラ某よ!傍系血族間に生まれしわれらと、その哀しくも醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、あのなにかが、気づかれもせずに、おきあがるのである。そうだ、戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。不屈の傴僂(ボーン)の霊魂は、いまもめげずに叫んでいる。戦 争 ハ 国 家 ノ 救 済 法 デ ア ル(2013/11/22)
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・わたくすぃめ、クローゼットで目ざめ、豆麩を数個食らふ。コビトと犬は散歩。やつらにこのところ殺意をかんじているじぶんがおり、はっとする。昼すぎ、エベレスト登攀に2度成功。なにもうれひくなひ。憮然として下山。オババ情報入る。「昨日朝、臭いに気づきふりむくと、改札のところで駅員に『日なたがいいよ〜』とさりげなく追いだされているやせ細ったオババを目撃。駅員の言い方は冷たくはなく、ただ、『DJポリス』みたいに、やけに調子がいい。オババ、ちゃんと緑と黄の縞々タイツ(ユニクロ?)を履いていた。オババはけふも生きている・・・」。どこもDJポリスだらけ。DJポリスは気色わるひ。いずれデモ警備にもでてきて喝采をあびるのだらうか。go to hell!オババが斃れるのを、わたくすぃべつに待っているわけではなひ。これは、しかひ、漫然と死を待っているのに似ている。(2013/11/23)
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・けふはエベレストにのぼらなかった。なにもなかった。メドーセージがまだ咲いていた。その青みが空気に夏時分よりは薄青くにじんでいた。かといって、なんにもない。それだけ。なにもなかった。メドーセージは、メドーセージなのだ。しかし、昼間に添付したのは、じつのところ、真夏に撮ったメドーセージだった。いま添付したのが、けふ撮った初冬のメドーセージだ。どちらを添付しようと、とくに大きな問題はなさそうである。だれも見てはいない。むろん、咎められはしない。だれかがメドーセージを見たとしても、時節にいちいち注意なんかしてはいないのだ。責めたり責められたりする筋合いのことじゃない。青紫の紫が褪せたかどうかに、だれがこだわるか。どこのだれが気が狂うほどにこだわるだろう。わたしはそうありたいのだが、メドーセージごときに、いったいだれが命をかけるだろう。メドーセージはメドーセージだ。夏のだろうが冬のだろうが、どうせわかりはしない。いつまでも、だれにもわかりゃあしないだろう。といふところが、かえっていやだから、なんだかゾッとするので、けふ午後撮ったピンボケのメドーセージを夏のに替えてアップする。だれのためでも、なんのためでもなく、もちろん、真実や誇りや良心や見栄や意地のためなんかではまったくなく、どちらかと言えば、ただの徒労として、そうする。徒労のみが、いま根元倫理上ゆるされる唯一の行為である、と言ってしまえば、またすぐにウソになるから、それも言わぬ。ただ、あのメドーセージとこのメドーセージは、どう言われようとも、やはり別物なのである。静かに別物でありつづけるのだ。言葉が青く揮発してゆく。かすんでゆく、消えてゆく、そのことだけに、ありもせぬ重心をかけてみる。残余の時を賭す。ああ、うっとうしい。(2013/11/24)
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・けふは小雨のなかエベレストにのぼった。道ばたにパトカーがとまり、なかから警官が2人わたしをじっと監視していたので、気分を害し、2度目の登頂はやめにする。どうしてわたしがアルカイダだとわかったのだろう?おなじジョークを9.11の翌年の1月、ボストンで言ったら、勾留されるから2度と口にしないでくれと米国人カメラマンに真顔で忠告されたっけ。でも、けふは下校時だったので、たぶん、アルカイダではなく、「不審者」か「変質者」とうたがわれたのかもしれないな。突きつめてかんがえてみれば、わたしが広義の不審者か変質者であることは、必ずしも否定できない事実だ。わたし以外のひとびとが非不審者、非変質者であればの話だが。いやなかんじ。なんとなくダフネに行くのもやめた。生きにくくなってきた。変調はいろいろある。コビトが昨日から行方不明だ。原因不明。行き方不明。見世物小屋の親方(いわゆるハンシャ)に無理やり連れもどされたのかもしれない。いや、コビトがみずから親方のもとに戻ったのかもしれない。なにしろ習慣ほどつよい行動規範はない。コビトのストリップショーで好奇の目にさらされるのを、彼女はたえがたひ辱めとかんじて脱走はしてみたものの、やっと手に入れた自由をじつはもてあましていた・・・といふことも想像できないではなひ。なんだかさびしいといえばさびしい。しかし、失えば得る、得れば失ふのが道理。といふわけで、わたしははれてクローゼットをでて、昨夜からベッドでのびのびと寝ている。コビトが明日も帰ってこなかったら、無添加特選豆麩の定期購買もやめよう。どうせクリック一発ですむことだ。しかし、変調はどのみち無限につづくだろう。かつて「悪無限」というへんてこな言葉をつかったなあ。累卵の危うきの無限性。悪無限。じつはそれこそが自覚されざる日常の内実だ。いまだって戦争が暗々裡に求められている。だれによって?コビト?親方?わたし?安倍晋三?習近平?資本?ジンミンタイシュウ?かれらの無意識?戦争の発動が暗々裡に求められている。まだ視えぬ戦争が予感されている。知らぬ間にみんな凶相になってきている。おや、ガガの目つきもおかしい。瞳を暗い影がかすめる。いやに落ちつきがない。尻尾がだらりと垂れている。これは犬ではなく、ガガの毛皮を着たコビトなのではないだろうか?ま、まさか!しかし、なにがあってもおかしくない世の中だ。ガガ本体はもうコビトに食われてしまい、毛皮のなかにそしらぬ顔でコビトが入っている可能性もないじゃない。ガガはもうガガではないのかもしれない。悪賢いコビトは芝居が上手だ。平気でうそをつく。ガガのまねぐらいお手のものだろう。このガガのなかにコビトが入っているのだとしたら、簡単には尻尾をださないはずだ。しばらくはガガのなかのコビトの芝居につきあってやろうじゃないか。あっ、ガガがタヌキのように垂れ目になっているように見える。おかしい。(2013/11/25)
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・特定秘密保護法案可決の記事で「これが民主主義か?」といふ見出しがあって、笑った。笑ろたよ。おまえら、そんなことも知らなかったのか?「人類の貧困を生産する作業に加担して、骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しない」と、ジル・ドゥルーズはトニ・ネグリにたいし至当の発言をしたけれども、それを読んだとて、たれひとりわが「恥」とも、わが「罪」ともおもひはしない・・・といふのが民主主義なのである。民主主義とはまた、女が結婚指環をはめた指で浮気あいてのオチンチンをしごいてやったり——そう、小指をピンと立ててね——、フェラってやったり、新聞記者たちが首相や官房長官や防衛大臣のアナル舐めをしてやったり、してもらったりすること(→アナリスト誕生)なのだ。権力への懸命のご奉仕である。今日の民主主義とはまた、国家神道と創価学会系列とチンピラ・ファシストたちが、ハグしあい、なかむつまじくまぐわふことである。そんなことも知らなかったとはおそれいる。第一次そして第二次安倍ファシスト政権が成立したとき、米つきバッタのごとくペコペコと挨拶へとかけ参じ「どうぞ、どうぞよろしくお願いします」と三拝九拝したのは、安倍じしんではなかった。社会のボクタクを自称する新聞、通信、放送各社の社長、編集担当役員、政治部長らであった。これがこの国のまぎれもない民主主義である。白状しろよ。いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか。安倍の官房副長官時代、しきりにかれにとりいり、テレビへ大学へと請じ入れては、言いたい放題をゆるしたのはだれであったか。田原総一朗、故筑紫哲也らではなかったか。安倍はかつて早稲田大学で講演し�(日本にたいするミサイル攻撃に着手した)外国基地を(自衛隊が)たたくことは憲法上できる�大陸間弾道ミサイルは憲法上問題ない�戦術核の使用は違憲ではない——と縷々述べた。この講演に田原、故筑紫らが関係し、サンデ—毎日がこれをスクープするや、「オフレコ破り」とテレビで怒ったのが、内閣官房ではなく、「正義の味方」筑紫哲也であった。笑っちゃう。これが民主主義である。民主主義のジャ—ナリズムである。大阪のあんちゃんをすっかりその気にさせたのは、もとはと言えば、TBSだった。大阪のあんちゃんに事実上の土下座謝罪をしたのは朝日新聞だった。外務省機密漏洩事件で「本社見解とおわび」という全面謝罪文を掲載し、以後、沖縄密約事件の追及をすっかりポシャってしまったのはどこの新聞か。「機密漏洩事件…美しい日本の美しくない日本人」という新聞批判の大キャンペーンをつづけて、売り上げ部数を大いに伸ばしたのはどこの週刊誌か。あのとき、どこの新聞記者、テレビ記者が、からだをはって西山太吉記者を擁護、援護したか。勇気ある個人は、ほんの数人をのぞき、ほとんどいなかった。西山さんと女性事務官がともに既婚者でありながら、肉体関係をつうじ機密情報の授受があったなどと、おもしろおかしく連日ワイドショ—で(下ネタ仕立てで)報じたのはどこのテレビ局だ。ほとんどすべてのテレビ局だったではないか。世論は下ネタ仕立ての報道に興味津々、よろこんで飛びつき、大いに消費したではないか。いまさら正義面するな。被害者面をするな。秘密保護法を呼びこんだのは世論であり、クソバエだらけのマスコミであり、なんだかいばりくさったいわゆる「ジャーナリスト」たちである。もっぱらテレビで身すぎ世すぎをやっているだけの腐れジャーナリストたち。某紙出身元バカダ大学セクハラ客員教授の自称ジャーナリスト。安倍一派と、取材と称し、いまもしきりに内通中のジャーナリスト。かれらがえらそうに秘密保護法反対の会見をする。とってつけたような憂い顔で。OMG!そう、これが民主主義である。わたしはけふもエベレストにのぼった。(2013/11/26)
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・easy like taking candy from a babyという慣用句がある。ニッポン流に言えば、赤子の手をねじるように簡単である、ということ。米国務省の役人はまちがいなくそう言ったか、おもったかしたにちがいがない。主語は「日本の世論を変えるのは・・・」である。んなこたあ、 easy like taking candy from a babyだよ。かのキャロライン・ケネディ駐日米国大使がわがふるさと石巻市を訪問した。複雑。なにがなし哀しくも屈辱的。日和山からわたしの育った南浜町、門脇地区を見おろしたそうだ。津波で知人ら多数が亡くなり、筆舌につくしがたい被害をうけたところだ。大使は小学校で子どもたちと交流、習字の授業を参観して、みずからも「友」と墨書した。ほぼ国務省のシナリオどおりの演出。感涙滂沱。効果絶大!わが故郷がまたも米国の戦略にやすやすと利用された。むろん、メディアが飛びつくまいことか。一大美談としてすべての新聞、テレビが詳報をつたえたことは言ふまでもない。おなじころ、沖縄県を地盤とする自民党の国会議員5人が、米軍普天間飛行場の辺野古への移転を容認する姿勢を明らかにした。沖縄の与党議員全員が容認にまわったことで、普天間基地の移設問題が一気に走りだした。 Oh、yeah、easy like taking candy from a baby! お次は、沖縄の自民党県連が米軍普天間飛行場の移設問題について、辺野古への移設を容認する方針を決めた。世の中、こころ飢渇(けかつ)して、あさましきこと侍(はべ)りき。あれほどかたい公約としてきた「県外移設」をみずからやぶり、「オール沖縄」で県外移転を求めてきたこれまでの布陣がガラガラと崩壊した。だいぶお皺がめだつけど、やっぱりセレブ、すてきなキャロラインさまさま!すべては見とおされていた。キャロラインさまにはどうしたって逆らえなひ。世界一ケツ舐めの得意なニッポンのマスコミが、こんどはアメリカのばかでかいケツを舐めてくれるのを、とっくに見透かされていた。Oh、yeah、easy like taking candy from a baby! もう特定秘密保護法どころではない。戦争ぶくみなのである。米空軍のB52戦略爆撃機が中国の主張している防空識別圏内を、100パーセント故意に、堂々通過した。喜色満面の日本政府。やっぱりたのもしいアメリカさーん!勇ましくなる一方の世論。日本の航空各社も、お上の指示にしたがって、飛行計画の提出を27日からとりやめることにした。わたくすぃ、浅学菲才なれども、ここで申しあげてもよかですか?中国と、あれ、つまりセンソーやるのでせうか?管見によりますれば、かの国はぜったいに、ぜったいに、ぜったいに、折れることはありませぬ。日米が居丈高になるのをじっとまっている。そのほうがかの覇権主義・人権圧殺大国にとって圧倒的に都合がよひからだ。いかに腐敗堕落した中国共産党とはいへ、安倍ごときの、いと軽(かろ)きオツムでどうにかできる相手ではぜったいになひ。舐めるケツの穴ををまちがえると、えらいことになる。B52のデモ飛行ていどはしてみせても、米国には対中戦争発動ないし本格介入の力(リキ)も意思もなひ。かの国はそれを知っている。骨の随まで腐ったかの国の共産党は、米国の弱みを知りつくしている。abso-fucking-lutely!米中関係は存外に深い。「キャロライン祭り」で浮かれているばあいではない。はい、ここで問題です。いまいちばんのアホは、どこのどなたでせうか?けふはエベレストに2度のぼった。CIA要員がビルの屋上から双眼鏡でわたすぃのケツをじっと見ていた。やばひ!左手でケツをかくした。(2013/11/27)
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・けふもエベレストにのぼった。コビトが帰ってきた。焼肉屋のにおいをさせて。クララはだまってクローゼットに入っていった。ガガもクローゼットに入った。ふたりでヒソヒソなにか話している。(2013/11/28)
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・エベレストにのぼった。コビトがまた家をでていった。ニンニクのにおいを残して。ガガの眼が虚ろになった。クローゼットにカルヴィーノの本が1冊あった。無言電話が5回あった。いやがらせ?警告か。「下痢がちの、きったない安倍のケ×(1字伏せ字)」「アナル舐め」「アナリスト」「クソバエ」などの直喩が問題視されているらしい。ほなら、臀部、肛×舐め(1字伏せ字)、×門専門家(1字伏せ字)、×蠅記者(1字伏せ字)・・・に書きかえればよかですか?人間はきったない安倍のケ×(1字伏せ字)を舐めたり、森とかいうテイノー大臣の三百代言を聞いたり、やつらの宴会費や変態パンツ代を税金で支払ってやるために薄給ではたらき、必死こいて生きているのではない。人間はたしかに下×動物(1字削除)だが、ここまでパーフェクトに最×等(1字削除)であってよいのか?カルヴィーノだってそうかんがえたことがあるだろう。まちがいなくかんがえたことがあった。ミラーも、ひとの下等性についてためらわず書きつづけた。わたしたちはわたしたちの最下等性について詩を書き、わたしたちはわたしたちの下×性(1字削除)について、声たからかに歌をうたいつづけなければならない。たとえば、るんるん「蝙蝠ーー遊動ペニス。ペニスに骨のある動物。骨があるから突っ張るのだ。さいわいなことに、人間にはこの骨がない。さいわいなことに?そうだ、さいわいなことにだ。ペ×ス(1字削除)を突っ張らせてあるいている人間をかんがえてみるがいい。カンガルーは二叉(ふたまた)の×ニス(1字削除)をもっているーー1本はウィークデー用、1本が休日用である。ねむい」。安倍の、脱×(1字伏せ字)した×門(1字伏せ字)のようなおちょぼ口や森まさこのなにやら象の糞的な××××(4字伏せ字)、はたまたキャロラインの無数のシ××ワ(2字削除)を見せられるより、カンガルーの二叉チンチンについて想像をめぐらすほうが、1日のすごしかたとしては、ちっとはマシなのだ。
(注)J-NSC言語統制委員会のご指示とご指導により、本文数箇所を伏せ字とし削除させていただきまひた。
(2013/11/29)
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・けふは用心のため家を1歩もでなかった。なので、エベレストにのぼらなかった。ガガによると、コビトはあす中国にいって中南海で要人とひそかに会ふらしい。習近平か?(2013/11/30)
辺見さんが私事片々(2013/12/05)で言及しているポピュリズム関連の動画です。
ヨーロッパ 台頭するポピュリズム
KIRIHIME04
https://www.youtube.com/watch?v=lUZHjpV2AhU
2014/11/12 に公開
Sサーバーにアップ ←MediaFireに保存。MediaFireはPCでは使い辛くなったのでipadを推奨。ipadで左記リンクをタップするとSafariの別頁が開き「Download(…MB)」の表示が出るのでタップする。黒い画面に変わり20秒から40秒待つと再生開始(時間帯、夜間は回線が混むので駄目)
ipad ←ipadの他、カバー等も AMAZON
外付けHDD ←関連の AMAZON
辺見さんが私事片々(2013/12/09)で言及していた「日米開戦——知られざる情報戦」です。
2013/12/08 NHKスペシャル
日米開戦への道 知られざる国際情報戦
http://www.dailymotion.com/video/x24nfw2_
2013ns日米開戦への知られざる情報戦1208 投稿者 okura1919ppp
公開日: 2014年08月27日
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完全版 1★9★3★7 イクミナ (上) (角川文庫)と
完全版 1★9★3★7 イクミナ (下) (角川文庫)です。
辺見庸さんの『増補版1★9★3★7』と、
堀田善衛さんの『時間』(岩波現代文庫)です。
辺見さんの『1★9★3★7』(イクミナ)です。
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