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2017年1月10日 (火)

日本ニュース 戦争証言アーカイブス 第101号(1942年5月)〜第120号(1942年9月)

 特に1945年8・15までの映像は、大本営発表で検閲済み国策映像。ただし、これはこれで当時の空気を想像・実感するのに役立つ貴重な資料映像です。すべてリンクと再生テキストを資料保存しておきました。なおリンク先ではすべて映像を見ることができます

 

日本ニュース 戦争証言アーカイブス
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/list.cgi

日本ニュース一覧
「日本ニュース」は、太平洋戦争を間近に控えた1940年(昭和15年)から終戦をはさみ、1951年(昭和26年)まで制作されたニュース映画です。制作したのは、「日本映画社」(※)で、1940年にそれまで4つに分かれていた新聞社や通信社のニュース映画部門を国策により統合したものです。
戦時中の「日本ニュース」は、日本軍や内務省の検閲を受けた後、毎週映画館で封切られ、国民の戦意高揚に用いられました。テレビがない時代、国民は「日本ニュース」が伝える真珠湾攻撃や特攻隊出撃、学徒出陣の様子を映画館で目にしたのです。
「日本ニュース」は、戦争完遂を目的にした国策映画ですが、太平洋戦争中の映像記録として大変貴重なものです。「戦争証言アーカイブス」では、1940年(昭和15年)の第1号から、戦後も含め、1948年末までのものを公開しています。

※(1941年5月までの会社名は「日本ニュース映画社」)
※日本ニュース戦後編の再生テキストは、国立歴史民俗博物館の協力で作成しています。

 

日本ニュース 第101号(1942年5月)8分22秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300486_00000&seg_number=001

新政治力を集結 東條首相各界代表を招請 08:18

新政治力を集結 東條首相各界代表を招請 08:18
帝国臣民の厳たる結束振りを示して、翼賛選挙も滞りなく終わりましたが、5月7日、東條首相は阿部信行大将ら70名を首相官邸に招き、新政治力結集に関して種々(しゅじゅ)懇談いたしました。東條内閣総理大臣。阿部信行大将。安藤翼賛会副総裁。後藤中央協力会議長。席上、東條首相は立って次のごとく述べました。
「本日、突然お招き申し上げましたところ、ご多用中にも関わりませずご来駕(らいが)に相成り、まことにありがとうございました。今回、第21回総選挙が施行せられたんでありまするが、大東亜戦下にあえて行われました総選挙の意義は、国民の間によく徹底、戦時下幾多の不便ありしにも関わらず、極めて名誉にして熱意ある選挙が行われたのであります。その結果、棄権率のごときも非常に少ないことは、高価のためまことに御同慶(ごどうけい)に耐えない次第であります。かくて我が国民の大東亜戦争遂行に対する鉄石の意思はいかんなく中外に闡明せられたのであります。この事実は世界に対し、我が国民必勝の信念を表明するとともに、既に緒戦に破れ、わずかに我が国内体制の動揺に一縷(いちる)の望みを託する米英および重慶に対し、無言の重圧を加うるものであります。これ、もとより全国民の純一無雑(じゅんいつむざつ)なる政治的熱意によるのでありまするが、また一面におきましては、皆様方のごとき各方面の指導にあたられる方々のご尽力によるものでありまして、ここに改めて御礼を申し上げる次第であります。御稜威(みいつ)のもと皇軍将兵の勇戦奮闘により、大東亜戦争は早くも赫々(かくかく)たる大戦果をもって、緒戦の大成功を獲得いたしました。しかしながら、申すまでも無く、戦いはまさにこれからであります。しかして、我々は緒戦の大戦果をますます拡充いたしまして、積極的に作戦を敢行いたしまするとともに、多年広大なる大東亜全般に渡って、大建設を行わねばならないのであります。官民、相ともに真に一致協力することも緊急なることは、今日より大なる時はないのであります。ここにおいて政府はこの歴史的なる総選挙の終了を機として、全国民の団結をいよいよ強固に、大東亜戦争完遂と翼賛政治体制の確立とを目指す挙国的政治力の結集を衷心より希望するものであります。まことにこの政治力の新しき結集こそ、現下の急務であると私は確信するものであります。なお、先に申し上げましたる通り、幸いに皆様方のご尽力と国民の熱意とによって、有意義なる総選挙が行われたのであります。私はこのたび選出せられた議員諸君が、従来のいろいろの行きがかりを一手にして、大東亜戦争完遂に、翼賛制体制確立の熱意のもとに、進んでこの結集に参加されんことを期待しておるものであります。かくてこそ、今回の総選挙の真の意義が発揮せられるものと私は確信いたすのであります。今日、皆様方、各方面先達の方々のご来駕(らいが)をわずらわせたのも、この政治力の結集の方途に関し、ご教授をお願いいたしたいという趣旨に出たのであります。何とぞ皆様方におかれましては、以上申し述べましたる私の心持をおくみ取りくだされ、この際、強固なる政治力結集をいかに実現いたしまするかにつき、十分のご工夫とご尽力とを賜り、もって国民団結の体制確立のためにお力をいたされんことをお願いいたす次第であります。簡単ながらこれをもって私のご挨拶を終わります。」

 

日本ニュース 第102号(1942年5月)11分29秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300487_00000&seg_number=002

コレヒドール陥落 05:45
マンダレー攻略  05:40

コレヒドール陥落 05:45
カバリオ島、フライル島を控えてマニラ湾の入り口に難攻不落と伝えられた鉄の島コレヒドール。昭和17年5月7日、もろくも潰(つい)る。バターン半島攻略後、コレヒドール要塞に逃げ込んだ米比連合軍を悠々にらんでいた我が軍は、敵が頼む鉄壁の陣にまず正確無比な爆撃を加える。準備完了、時まさに端午の節句5月5日、勇みに勇む強行上陸部隊はノース海峡を一斉に突破。火を吐く火炎放射器を抱えて、敵のトーチカめがけて肉薄する。決死報国の一念あるのみ。よもや上陸はできまいとひたすらに堅陣を頼みにした米比連合軍は、猛烈果敢な上陸作戦の前に、まず最大の要衝マリンタヒルを失い、投降者相次ぐ。たまりかねた米比軍司令官ウェンライトは、5月6日夕刻、白旗を掲げてバターン半島カブカべンに至り、最高指揮官本間将軍に会見を求む。やせ細りさすがに憔悴(しょうすい)の色、蔽(おお)いがたき敵将は、しかもなおこの会見において、全米東亜軍の降伏を免れんとはかる。されば我が方、猶予すべきにあらず。翌7日にかけて再度の猛攻を開始。午前8時、敵前上陸以来、僅々(きんきん)32時間をもって比島方面帝国陸海軍部隊は全要塞を撃滅。世界戦史に比類なき燦(さん)たる記録を残しました。ここに事実上フィリピン群島の戡定(かんてい)を終わったのみならず、アメリカの拠点をことごとく覆滅するに至ったのであります。
交渉、不調を告げるや、不甲斐なくも率先投降してきたれるウェンライトをはじめ、敵の捕虜約1万2千5百。このコレヒドール攻略にいたるまでバターン半島をはじめ、フィリピン戡定作戦に尊き御身をもってご参加あらせられた東久邇宮盛厚王殿下には、硝煙なお消えやらぬ5月8日、同島に御上陸。敵陣地をご視察あらせられました。かつてアメリカ-スペイン戦争の直後、アギナルド将軍が3年有余にわたってアメリカに執拗な抵抗を試みたと言われる天然の要害に加えて、鋭意力を尽くした近代的陣地構築は、眼前に見る14インチの巨砲は無論のこと、おびただしい鹵獲(ろかく)品の山に武装され、まこと鉄の島の名を与(あと)うるにふさわしく、尽忠無比の皇軍ならずして誰がこの攻略をのぞみえたでありましょうか。地下にはさながら、ひとつの町があり、我が痛爆を恐れたアメリカ兵がここに潜み、かしこに慄き、我が砲撃に傷ついた身をもまた養っていたのでありました。戦史に不滅の大戦果を挙げて、かねてこの時あるまではマニラに入(い)らずと黙々第一線にあった本間最高指揮官は、5月9日打ち振る日章旗の波に迎えられ、首都マニラに感激の入城をいたしました。マニラ湾に今ぞ敵影なし。アメリカの野望を微塵(みじん)に打ち砕いて、フィリピン建設は本格化するに至ったのであります。

マンダレー攻略  05:40
焼きつける太陽のもと、酷熱実に130度を冒して、我が陸軍精鋭部隊は軍旗を奉じ、マンダレーへの街道を歩む。里程標(りていひょう)は物語る104マイル。いまだマンダレーへの道、近しとせず。しかもあらゆる困難を突破して、強行に強行を重ねる我が軍の猛進撃は、イギリス重慶合作の連合軍を、随所に補促(ほそく)殲滅(せんめつ)しての快進撃。すなわち飯田最高指揮官統率のもとに、3月下旬トングーを一気に抜き去った皇軍は、援蒋ルート壊滅の決意も固く一路北上。北は雲南省に踏み入り、西はインドに面して、厳然たる陣を敷かんとする。
休む暇も無い進撃に暑さは厳しく、のどは渇く。敵軍よりも頑強な悪疫の逆襲もある。されど必勝の信念あくまで高く、士気極めて旺盛なり。敗敵を追って部落に入れば、重慶軍司令官衛立煌がはかない抗戦の後を留めている。これに引きかえ皇軍を心から信頼するビルマ民衆の歓迎ぶりは、涙のにじむような熱烈さ。このあたりはすでに敵軍の逃げ足早く、ビルマ人の被害は意外に少なかったのである。イギリス軍を討て、重慶軍を葬れと、ビルマ旗を掲げ、美しい清水を捧(ささ)げて民衆は慕いよる。
イギリス人捕虜は次第に数を増してくる。
見よ、余すところ82マイル。マンダレーへ近づいた。ビルマ援蒋ルートの心臓部マンダレーを守らんと、敵は橋を落とす。この哀れな作戦を莞爾(かんじ)と笑って、飯田最高指揮官の命令一下、マンダレー攻略の火蓋(ひぶた)は切られました。
かくて5月1日(いちじつ)、ラングーン突入よりわずか54日にして、征旅実に620キロ。苦闘のうちに尊くも散った戦友の骨を胸に、マンダレーへ入城。ここに北部ビルマの最大拠点はついに陥落しました。英蒋連合軍があくなき焦土戦術に、ビルマ文化を誇る最大の旧都も今は見る影も無く破壊しつくされた。イギリス軍、重慶軍、一兵たりとも許すべからず。北へ奥地へ、急追の軍は進められていく。

 

日本ニュース 第103号(1942年5月)10分59秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300488_00000&seg_number=004

高松宮殿下 南方御視察   02:35
ソロモン諸島戡定      02:15
ビルマ戦線エナンジャン陥落 03:08
浙東新作戦         02:56

高松宮殿下 南方御視察   02:35
《字幕》
「輝く第三十七回海軍記念日を迎へ 我等一億国民 大東亜戦の赫々たる戦果を讃ふ」
かしこくも高松宮殿下には4月下旬、尊き御身をもってバタアン半島最前線に、米比連合軍との激戦地をご視察あらせられ、本間陸軍最高指揮官より、種々(しゅじゅ)軍状をご聴取。この作戦にご参加あらせられた東久邇宮盛厚王殿下ともご会見あそばされました。南国の色豊かな戦跡にお立ちあそばされた殿下には、激戦の跡をつぶさにご覧あらせられ、しばし将兵の敢闘の跡をしのばせたまいました。殿下にはジャバ島にもまた御成り遊ばされ、壊滅以前の蘭印艦隊が盤踞(ばんきょ)せる、バタビヤ、タンジョンプリオク港に我が痛烈なる攻撃の跡をご視察あらせられました。尊き御身をもっての戦線ご視察に、陸海の将兵はひたすらに感激。意気ますます上がり、尽忠報国のまことを致さんことを期したのであります。

ソロモン諸島戡定      02:15
悠々たり海の兵(つわもの)。南海の大海原に燦々(さんさん)たる陽光を浴びて肉体を鍛(きと)う。敵前上陸の日は目睫(もくしょう)にあり。これは、珊瑚海の大勝を5日後に控えた5月2日。ソロモン諸島の首都ツラギへの果敢な上陸作戦である。
敵襲。
敵は我が果敢なる攻撃の前にもろくも撤退。海軍陸戦隊の精鋭は、暁駆けて島内の掃討戦に挺身(ていしん)。軍艦旗を翻しての快進撃。狼狽(ろうばい)せる敵は、ほとんどなす術を知らず、わずかに諸施設の破壊をもって豪州方面に撤退。かくて重要拠点の確保はなりました。ここにソロモン島、戡定(かんてい)作戦はほぼ完了し、5月7日および8日の両日にわたって獲得した輝かしい珊瑚海の環礁と相まって、我が軍はニューギニア、オーストラリアに対して、不動の堅陣を構えることになったのであります。

ビルマ戦線エナンジャン陥落 03:08
マンダレー攻略の中央進行路に呼応して、イラワヂ河を一路北上せる陸軍精鋭部隊は、4月17日、ビルマ最大の油田地帯エナンジャンに到達。
快速進撃、驚くばかり。ひしひしと迫る我が軍の猛攻に、重慶インドの連合軍は、敵し難しと見るや、卑怯(ひきょう)にも得意の焦土戦術に出ました。ビルマにおける石油産額の約40%を占めるエナンジャンは、敗残の敵兵を呪うがごとく燃え続けている。敵は油送管にいたるまで火を放っていたのであります。
さすがこの地方は石油の供給地として、イギリス軍が重要視していただけあって、イギリス兵の捕虜はめだって多く、彼らが遁走(とんそう)を企てるインドへの道、近きことをも、また思わせたのでありました。
油井戸に立てられた櫓(やぐら)の林立するこの町には、イギリスがこれまで外国資本の進出を認めず、油送管をラングーンにまで送って、ひたすらイギリスインド洋艦隊、並びに空軍の燃料補給に努めていたのでありました。しかもラングーンすでに我が手に帰し、インド洋艦隊は覆滅。加えて神速皇軍の前に、油田地帯、もろくも陥落す。
酷熱に負けず、悪疫にも負けず、軍旗を奉じて敗走する敵を追う。マンダレー攻略部隊との握手は迫っている。

浙東新作戦         02:56
我が新鋭有力部隊は、5月15日を期して、浙江省東部に行動を開始。蒋介石軍の精鋭2軍団に対し、撃滅の軍を起こしました。浙東地区に一大包囲殲滅戦(せんめつせん)を展開した我が軍の一隊は、暁の空に軍馬のいななきも高々と、ジョウ県より義烏(ぎう)に至る敵防衛の堅陣を一挙に突破すべく、堂々の軍を進める。南方、ことにはビルマ作戦には赫々(かくかく)たる戦果に呼応して、蒋軍殲滅(せんめつ)の決意は固く、峻険(しゅんけん)もものかは、敵を随所に蹴(け)散らしながら、16日には早くも重要拠点、ジョウ県を一息に攻略しました。
戦場に余裕は綽々(しゃくしゃく)。急追撃に備えて勇士らは、束の間の眠りをとる。さらに追撃を続ければ、重慶が頼みとする浙東の沃野(よくや)は、麦の実りも豊かである。
麦を越え、麦畑の散兵壕(さんぺいごう)を飛び越えて、果敢な白兵戦を展開。敗敵に逃げる暇も与(あと)おればこそ、クリークを伝い、東陽江を下る。陸の精鋭は、義烏から金華へ偉大なる戦果をあげていきます。

 

1942年6月
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/list.cgi?value=19426

日本ニュース 第104号(1942年6月)10分54秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300489_00000&seg_number=003

高松御差遣宮殿下 建国十周年御慶祝 03:30
第八十臨時議会           03:52
ビルマ戦線 緬支国境突破      03:27

高松御差遣宮殿下 建国十周年御慶祝 03:30
満洲国皇帝陛下、親しくお出迎えあらせられるうちに、建国10周年ご慶祝のため、御差遣(ごさけん)の高松宮殿下には、5月28日、御つつがなく新京にお着き遊ばされました。ホームに降り立たせられた御差遣(ごさけん)の宮殿下には、皇帝陛下と固き御握手、御挨拶を交わさせられ、我が皇室と満洲国帝室とのご親交のほどは、拝するだにかしこき極み。日満一徳一心(にちまんいっとくいっしん)の大義は、栄として中外に輝いたのであります。建設躍進の努力を積み重ねて、ここに10周年を迎えた満洲国民草4300万の喜びは、殿下奉迎のありがたさにいやまし、大東亜戦争完遂に邁進(まいしん)する日本に協力の誓いを新たにしたのでありました。29日、帝宮にてご慶祝の盛儀を終えさせられた殿下には、30日、満洲国政府協和会主催の奉迎式に御台臨(たいりん)あらせられました。この日、光栄(こうえい)に満ちてお迎え申し上げた3万の若人は、見事な分列行進に、集団体操に、日頃の意気と訓練を溌剌(はつらつ)と繰り広げました。
終わって、張国務総理の発声にて、聖寿の万歳を奉唱。
「天皇陛下、万歳、万歳、万歳」

第八十臨時議会           03:52
≪東條首相施政演説≫
「大東亜戦争の勃発以来、いまだ半歳に満たざる短期間におきまして、皇軍は随所に敵兵力を撃砕。大東亜における要域はことごとく皇軍の占有するところとなり、米英の海上部隊はもろくも太平洋及びインド洋より駆逐せられ、ここに御嘉尚の優渥なる勅語を拝しますること、実に8回におよんだのであります。かくのごとく相次ぐ無上の光栄により、国威を世界に宣揚(せんよう)いたしましたることは、まことに前古未曽有の事績であります。しかもこの世界に類例なき、連戦連勝と並んで各方面共に盛大なる新建設が行われ、今や大東亜戦争の目的は着々として達成せられつつあるのであります。しかして在支皇軍の活躍は、いよいよ重慶軍の勢力を減殺しつつあります。さらにまた、北方の守り、厳として盤石の固きを加えつつあるのであります。」
≪嶋田海相戦況報告≫
「かようにして彼我の活発なる作戦が次第に戦旗を進め、ついに珊瑚海の海戦を見るにいたりました。アメリカ、イギリス、両総督は、この損害をひた隠しに隠しておりますが、いずれはその真相が知れわたること必然であります。その時こそは、先のインド洋の戦果と合わせ、米英両国が国民を挙げて、いっそう悲痛なる衝動に打たれることは明らかであります。」
次いで皇軍感謝敬弔(けいちょう)決議案を上程。秋田清氏より、提案理由を説明して、岡田議長ただちに採決に入る。
「採決いたします。本案に賛成の諸君の起立を求めます。起立総員。よって本案は全会一致、議決いたしました。」

ビルマ戦線 緬支国境突破      03:27
(音声中断)国境の町、椀鎮(えんちん)。敵はこの道を「勝利路(しょうりろ)」と言い、「歓送遠征将士」と記す。なんと、はからん彼らは、同じ道を敗残にあえぎ、敗走に焦る。我が軍は追撃の手をいささかも緩めず、5月5日、逃げ遅れた敵兵を殲滅(せんめつ)しながら椀鎮より84マイルを一気に突破して、堂々竜陵(りゅうりょう)に入城しました。蒋介石軍が唯一の補給路と頼むビルマ輸送路の要衝には、いまだ重慶に渡らずして残された敵軍事資材が山と積まれ、石油、タイヤ、錫、砲弾など、いかにこの輸送路に敵が期待していたかを如実に物語っているのであります。
竜陵占領の皇軍は疲れも見せず、またも快速進撃を続行。同じ5日の夕刻、ついにサルウィン河、すなわち怒江河畔に到達。
河を隔てて堅固な重慶軍陣地と相対峙(あいたいじ)、かつて我が海鷲の猛爆を浴びた鉄の釣橋、恵通橋(けいつうきょう)は、皇軍の大追撃を恐れた蒋介石軍自らの手によって、今再び破壊され、はるか断崖の下に、急速に衰えた敵の戦力を物語っているのであります。(音声中断)


(最後)

大東亜戰争感謝貯蓄

第三囬戰時
貯蓄債券
 二十円・十円・五円
報國債券
 十円・五円
賣出中
七月十日マデ

大藏省・逓信省・日本勸業銀行

(日本ニュース 終)

 

日本ニュース 第105号(1942年6月)11分9秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300490_00000&seg_number=002

中国特派大使 チョ民誼氏来朝 01:17
生産力拡充へ鶴嘴戦士表彰式  00:35
東條首相 日立精機視察    02:00
小スンダ列島戡定       02:35
浙東戦線~浙責作戦~     04:34

中国特派大使 チョ民誼氏来朝 01:17
中華民国国民政府訪日特派大使チョ民誼氏は、6月1日(いちじつ)、かしこくも謁見を賜るの光栄に浴し、宮中に参内いたしました。
越えて2日、大使は、楊、任両副使以下を伴い、東條首相招待の晩餐会に臨み、日本の赫々(かくかく)たる勝利を讃え、国民政府の決意と対日協力の誠意を披瀝(ひれき)いたしました。

生産力拡充へ鶴嘴戦士表彰式  00:35
鉱道深く快進撃、石炭の増産に成果をあげた鶴嘴(つるはし)戦士の表彰式が、企画院厚生省、商工省の共同主催のもとに、6月4日、首相官邸で行われました。栄光に輝く戦士たちは、岸、小泉両大臣からうれしい表彰状に続いて、黒十字の大臣徽章(きしょう)を胸に飾られました。

東條首相 日立精機視察    02:00
軍備の飛躍的充実には、精密機械工業が高度に発達しなければならない。諸君、しっかり頼みますと、東條首相がこのほど東京の日立精機工場を訪問しました。
生産の戦いに負けるようなことがあっては前線の将兵に申し訳がないと、真っ黒になって立ち働く産業戦士の真摯敢闘に、首相はいたく感激。旋盤機械の真っ只中で、激励の言葉を贈りました。
「航空兵力ならびに機甲兵力の急速なる充実の成否は、いつにかかって軍需工業能力のいかんにありと言うも過言ではないのであります。しかして、人員、物資とも、著しく制約を受けているところの今日にあり、軍需工業能力を向上するには、まずその画期的高能率化を断行することが急務であるのであります。」

小スンダ列島戡定       02:35
赤道南方小スンダ列島中、ロンボク、スンバワ、フロレス島に残存する敵の掃討作戦は、5月10日開始、17日全く完了しました。東インド方面陸軍精鋭部隊は、ロンボク、スンバワに引き続き、5月13日フロレス島北岸、レオに奇襲敵前上陸を敢行。
我が猛攻の前に壊走する敵に引き替えて、住民は皇軍の温情に集まり、敗敵、掃討に協力を誓う。陸の精鋭は一気に敵を押しまくり、山岳地帯を突破。14日には早くも南岸の要衝に達し、17日小スンダ列島の戡定作戦を終わったのであります。ここに我が軍は、先に戡定(かんてい)をみたチモール島との連絡を確保し、豪州に対する威圧は一段と強化されるに至りました。

浙東戦線~浙責作戦~     04:34
陸軍部隊の浙東作戦に呼応して、海軍部隊もまた行動を開始。5月30日、玉環島上陸に成功。すなわち支那方面海軍部隊の精鋭は、浙江省の沿岸を制圧しながら一路北上。ショウモン湾を抑え、玉環島に迫る。5月30日、見事無血上陸を行い、ただちに玉環堅城を占領。引き続き翌31日、全島の残敵掃討を終わりました。一方、浙江省南部山岳地帯を猛進する陸軍部隊は、待望の衢州目指して、蒋軍第3戦区席巻。
敵の金城湯池(きんじょうとうち)に、重慶の息の根を止めるべく、気負いたった報道部隊も銃を取り、蒋軍撃滅の意気に燃えて敵地を行軍。
かくて衢州(くしゅう)へ、衢州へ、アメリカが力こぶを入れた飛行場の占領は間近にあります。

 

日本ニュース 第106号(1942年6月)10分58秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300491_00000&seg_number=001

比島制圧の記念観兵式   01:34
邦人再び活躍ダバオ麻生産 02:14
ジャバに漲る新生運動   02:10
大陸戦線~晋冀豫作戦~  02:41
大陸戦線~浙責作戦~   02:13

比島制圧の記念観兵式   01:34
馬上ゆたかに本間最高指揮官、諸兵を閲す。バタアン、コレヒドール、両要塞陥落して約1ヶ月。6月3日、フィリピン派遣軍感激の攻略記念観兵式がマニラで挙行されたのであります。軍戦まさに150日、フィリピン群島戡定(かんてい)の労苦は比類なく、しかも勝っておごらず、自らを語らず、ただひたすらに武勲をひめて、本間最高指揮官の馬前に堂々の分列行進を行う。式を終わって、ルネタ公園広場を出でた皇軍機械化部隊は、威武厳然と市街を圧し、市民の歓呼にこたえる。かつてアメリカ軍隊がかっ歩したこの大通りを進む精鋭日本軍。まさに比島作戦の終わりを飾るにふさわしい感激絵巻でありました。

邦人再び活躍ダバオ麻生産 02:14
ミンダナオ島の美しい山、アポ山を背景に、ダバオ界わいをうずめる麻の畑。これは芭蕉の一種、アバカといい、砂糖とともにフィリピンの二大産物の1つであります。舟や魚の網のロープになくてはかなわぬものとして、我が国にはマニラ麻の名でつとに知られていました。南方進出の邦人はこのマニラ麻に着目し、ダバオに土地を卜して品質改良に研究を重ねたすえ、生まれたのはいわゆるダバオ麻で、戦前には全フィリピン生産額、約15万トンの6割近くを産出して、フィリピン経済を助けていたのでありました。大東亜戦争起こってわずかに12日目、ダバオは疾風のごとき皇軍の占領するところとなり、救い出された在留邦人はただちに血と汗の結晶であるそれぞれの耕地に立ち返って、このように再び作業は開始されたのであります。植えつけてから1年半、幹を切り倒して固い繊維を抜き出す仕事は、邦人の発明した機械で何の無駄もなく行われます。そして乾燥が済めば、水に強い純白の糸が得られ、ロープばかりか日本紙や帽子の原料にさえなります。
品質検査が終わると圧縮されて積み出されるわけですが、共栄圏を潤す麻糸の用途はいよいよ広く、それに引き替えてアメリカの苦悩はますます深刻となってきました。

ジャバに漲る新生運動   02:10
おはよう、バタビアの子どもたち。君たちはどこへ行くんですか。チハヤ学校。とても上手な日本語でそう答えるジャバの子どもにつられて中へ入ってみました。するとちょうど国民学校でやっているように、朝のラジオ体操が始まりました。まだみんな1年生ですが、元気で溌剌(はつらつ)としています。この学校は軍の宣伝班で開いたものですが、早くなんでもお話できるようにと、涼しい木陰で毎日一生懸命、日本語の勉強です。こいのぼりのこともこの通り、ちゃんと習いました。チハヤ学校と並んで、バタビアには三A(さんあ)運動の付属学校というのがあります。御覧なさい。小さい子どもをはさんで、相当なおばさんまでいろはから覚えているのです。もちろん若い青年がこの学校では断然多く、三A、すなわちアジアの光明日本、アジアの母体日本、アジアの指導者日本の旗印を掲げて、いままでの間違った生活から立ち上がるんだと、大した張り切り方です。こうやって積もり積もった日本への信頼を表そうと、5月27日の海軍記念日に、三A運動の大行進がバタビアの少年や青年たちによって行われました。この運動を私たちはお互いに力強く伸ばしてやりましょう。

大陸戦線~晋冀豫作戦~  02:41
浙江ならびに南支の作戦に呼応して、支中作戦に引き続き北支派遣軍は、5月下旬、新郷一帯に重慶軍殲滅の火蓋を切る。山西、河南、河北、三省の省境、渉縣(しょうけん)を中心とする地区は、いわゆる赤色回廊として共産匪(きょうさんひ)の跳梁(ちょうりょう)するところ。ここに盤踞(ばんきょ)する共産軍第18集団、および劉伯承(りゅうはくしょう)揮下約1万を包囲すべく、鉄道に沿って行動を開始。
壊走する共産匪を追って、平地より山岳地帯へ。峻険(しゅんけん)を越え、山海を征服し、快速部隊の目指すは敵の拠点、渉縣。重慶が企図するいわゆる国共合作の持久作戦の根幹は、次々に破砕されていくのであります。蒋介石が呼号する第3戦区は、はかなくも潰(つい)え、重要軍事拠点衢州の陥落、目睫(もくしょう)に迫る。

大陸戦線~浙責作戦~   02:13
トーチカを構え、山岳を頼む敵の頑強な抵抗をものともせず、決死の前進を続けた皇軍精鋭部隊は、6月3日総攻撃を開始。たちまちにして衢州前面に大包囲陣を形成。連日の豪雨に進撃は極度の困難を加え、あまつさえ敵は得意の戦術で橋を落とし、我が軍を阻まんと必死にあえぐ。6月6日、我が軍はついにまず衢州東方の飛行場に突入しました。重慶がアメリカとはかって、日本本土空襲を夢見た拠点は、いまだ工事の完成を見ず、いたずらに泥沼と化している。同日、皇軍は飛行場からさらに県城へ、一挙に踏み入りました。本日作戦開始以来わずか23日目、400キロを突破したのでありました。浙江作戦を目して、金華・蘭渓の占領にありと誤認した重慶軍の狼狽(ろうばい)は蔽(おお)いがたく、莫大な戦利品に加えて、無知なるがゆえに踊らされた捕虜の数もまたおびただしく、とどまるところを知らぬ皇軍の前進に、重慶の恐怖は想像にあまりあるものがあります。


(最後)10分35秒から、東南アジアの地図を背景にして

此の戦果も 此の感激も230億貯蓄から

(日本ニュース 終)

 

日本ニュース 第107号(1942年6月)10分40秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300492_00000&seg_number=002

ビルマ復興       02:08
上海諜報団検挙     02:58
アリューシャン列島強襲 05:29

ビルマ復興       02:08
ビルマ独立連盟の勇敢な指導者、元首相バーモ博士とキンママ夫人に、過去の血涙を洗う喜びの日がやってまいりました。一昨年8月、独立の狼煙(のろし)をあげんとして、暴戻イギリスの手に囚われの身となったバーモ博士は、皇軍のビルマ進攻とともに獄を脱してさすらいを続けるうち、必死になって博士を捜し求めた我が軍に救われ、6月4日、飯田最高指揮官によって、中央行政機関設立準備委員会委員長にあげられたのであります。
マンダレーの南を流れるイラワジの支流、シンゲ河にかかった鉄橋は、皇軍の猛追を恐れた敗敵重慶軍によって4月下旬破壊されましたが、雨季を前にして復旧部隊の昼夜を分かたぬ作業、功を奏し、5月30日見事に開通。飯田将軍の臨席を得て、盛大な開通式が行われました。これでラングーン、ラシオは完全に結ばれたわけで、ビルマの復興は着々として進んでいきます。

上海諜報団検挙     02:58
これは上海を根城に、支那事変発生以来、もっとも悪辣(あくらつ)なスパイ行為を繰り返した国際諜報(ちょうほう)団、アメリカ人ポーエル一味を一挙に覆滅すべく、防弾チョッキに身を固めて、上海憲兵隊員が命を投げ出しての活躍とその実際をおさめた珍しいニュースであります。真夜中に彼らの不意を突いて行われた検挙は見事成功し、日本に対する憎むべき諜報、宣伝、謀略をはかった証拠物件の中には、時計爆弾やピストルが多数発見され、極めて大がかりな諜報(ちょうほう)団であることを物語っております。
検挙は夜を日に継いで行われ、探偵小説をそのままに、上海の各所に散在する隠れ家を襲って、根こそぎ重要人物を捕まえることができました。その第一人者、チャイナウィークリーレビュー主筆、アメリカ人ジョン・P・ポーエル。ポーエルらの手先となって働いた支那人も多く、直接、間接の関係者を数えると約6000名に達したのであります。スパイの一人、オリエンタルアフェアーズ主筆兼評論家、イギリス人ヘンリー・ウッドヘッド。上海イブニングポスト記者、アメリカ人ホッパー。以上の中心人物は、動かしがたい証拠物件に自らの裁きを託して、近く軍律会議にふせられることになっております。

アリューシャン列島強襲 05:29
大本営発表、東太平洋全海域に作戦中の帝国海軍部隊は、6月4日アリューシャン列島の敵拠点、ダッチハーバーならびに同列島一帯を急襲し、4日5日両日にわたり反復、これを攻略せり。荒波狂う北海の洋上に堂々船団の列を連ねて、新たに驚異的一大作戦を展開せんとする皇軍の精鋭。
目指す北洋の島々にアメリカの野望は無限に膨れあがろうとする。アジア大陸から北アメリカ大陸に飛び石のごとく連なるそのアリューシャン列島には、今、白夜の季節が訪れ、ようやく雪も解けて、ツンドラの進撃は非常な困難を伴うであろう。しかし、時は今である。決死の覚悟も固い我が海軍陸戦隊の精鋭は、軍靴にたっぷり油を塗り、アメリカの我が本土に対する攻略的企図を微塵(みじん)に粉砕せんと、暁(あかつき)かけてアリューシャンの島々に襲いかかった。
果たして、雪解けのツンドラ地帯の進撃は困難を極め、歩くことが一つの戦いでさえあった。そのうえに丘また丘、ほとんど平坦地とてはない。
敵はいち早く姿を消し、逃げ遅れた守備兵は我が軍の手に捕らえられた。これを道案内としてさらに進撃し、我が不屈の大和魂があらゆる困難を征服して、島内の戡定(かんてい)を驚くほど迅速におし進めた。
アリューシャン列島、その東の端にはアラスカの濃霧の地とともに、北辺のアメリカ軍根拠地たるダッチハーバーが、はるかにパナマ、ハワイと三角形を形成して、日本攻略の秘策を練りつつあったのである。したがって、点々とアメリカ大陸の危機を浴びた列島には、アメリカは全力を尽くして軍事の強化を試みつつあった。我は機先を制して、雄大なる戦略を展開。逆にアメリカ本土を制圧せんとする体制をとったのである。アメリカの狼狽(ろうばい)はけだし大いなるものがあるであろう。アメリカ本土近し。大軍艦旗、北海の朝風に翻って将兵の感激胸に溢れ、はるかなる祖国日本の空に銃剣を捧(ささ)げて帝国の万歳を祈る。見よ、アメリカが日本侵攻を夢見たアリューシャンの拠点に、海の精鋭は勇姿を浮かべて待機する。世界の耳目を聳動(しょうどう)し、米英をして顔色なからしめた空海陸一体、戦史未曽有の雄渾(ゆうこん)なる共同作戦は、かくて素晴(すば)らしき成功のうちに押し進められている。

 

日本ニュース 第108号(1942年6月)10分7秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300493_00000&seg_number=002

和平地区から旧法幣抹殺     02:43
泰国革命記念日         02:23
ビルマシャン高原を行く     03:13
アリューシャン作戦アッツ島攻略 01:44

和平地区から旧法幣抹殺     02:43
良きにつけ悪しきにつけ、支那経済の動きを適切に反映する上海をはじめ揚子江下流三角地帯の和平地区から、重慶政府が発行している旧法幣が完全に抹殺され、6月8日をもって軍票、中央儲備(ちょび)銀行券のみが法的通貨として認められ、7月7日の支那事変記念日を前にして、通貨の戦いにも重慶は惨めな敗北を嘆かねばならないのであります。すでに農民銀行、その他重慶側銀行は閉じられて見る影もありません。この旧法幣抹殺に関して、周仏海(しゅうふつかい)財政部長は、5月31日、南京においてその方針を明らかにいたしました。省みれば、大東亜戦争以前には、新旧両法幣は軍票に対し、同じ率で換算され、軍票のみが高値を続けていました。しかも果てしない重慶のインフレ現象は、次第に旧法幣の暴落をきたし、人民の生活を苦しめましたので、ここに断固、流通禁止となったのであります。このために国民政府は莫大な犠牲を払い、軍票1、新法幣5、旧法幣10の割合をもって、6月8日から14日間、その交換に応じました。今やこのすう勢に応じて、和平地区の店先には重慶側通貨お断りの張り紙が大威張りで貼り付けられ、値段はすべて諸備券建て。銭荘(せんそう)その他には、手持ちの旧法幣を一日も早く安定したお金に換えようと、続々交換者が詰めかけ、国民政府に対する人民の信頼は、限りなく増大したのであります。
このために国民政府は莫大な犠牲を払い、軍票1、新法幣5、旧法幣10の割合をもって、6月8日から14日間、その交換に応じました。

今やこのすう勢に応じて、話柄(わへい)中の店先には重慶側通貨お断りの張り紙が大威張りで貼り付けられ、値段はすべて諸備券建て。

銭荘(せんそう)その他には、手持ちの旧法幣を一日も早く安定したお金に換えようと、続々交換者が詰めかけ、国民政府に対する人民の信頼は、限りなく増大したのであります。

泰国革命記念日         02:23
日本と協力して大東亜戦争完遂の意欲に燃える泰国に、一年中で最大のお祭り日、革命記念日が訪れ、6月23日から3日間、首都バンコクは戦時下にも関わらず、数々のお祝いの行事でにぎわいました。
その第2日目の24日、ドムアン道路に建てられた仏印との国境紛争をしのぶ記念塔の除幕式が、ピブン首相臨席のもとに行われました。除幕式を終えた後、ピブン首相は精鋭日本軍の活躍を目前に見て、ますます新興の意気上がる泰国軍を閲兵。
次いで、ユアチョン、ユアナリ運動として知られる青少年団を謁して、華やかな進軍絵巻を閉じました。

ビルマシャン高原を行く     03:13
泰、仏印、支那に境を接するビルマのシャン地方は、イギリスが長い間、外国人の出入りを禁じていたところで、豊かな地下資源と珍しい風俗をもって世界の神秘郷として有名であります。足でこぐ舟。ここはマンダレーから東南方400キロにあるインレー湖で、辺鄙なこの地方での生活の中心地です。海抜4000弱のこの高原地は、気候もちょうど我が国に同じく、住民の顔も日本人によく似ています。日本人に接することのほとんどなかった彼らは、強く正しく情けある日本軍の噂を伝え聞いて、手に手に日の丸を持って我々を迎えてくれました。そして歓迎の心づくしに珍しい風習を見せて、我々遠征の将兵の心を楽しませてくれました。我々宣伝班の到着を聞いて、この地の王様も心から歓迎の言葉を述べました。皇軍に追われて雲南へ逃げ込んだ支那軍が通過した跡では、元の平和な毎日に返って、5日目ごとに開かれる市場に、住民は買出しや物売りに、遠いところから舟に乗って集まってきます。この市場には山深く生活するバダウン族も姿を見せます。その女は首が長いほど美人であると言われ、真ちゅうの金具をはめています。薪を売って生活に必要な品を買えば、また山に引き返して行き、他の民族との交通を絶つ。このような未開の人々にも日本の優れた文化の手がさしのべられる日も遠くはありません。

アリューシャン作戦アッツ島攻略 01:44
我が北辺を伺うアメリカが、その進行路と頼んだアリューシャン列島の最西端にあるアッツ島攻略は、隣島キスカ攻略に相呼応して断行されました。北海特有の激しい波や深い霧を征服して、いよいよ目指すアッツ島に近づく。島は雪をいただき、霧に包まれ、断崖が海面にそそり立っている。6月8日、奇しくも大詔奉戴日。一発の銃声も聞かず、陸の精鋭は上陸に成功。切り立った海岸をよじ登って、主力部隊は直ちに目的地チチャゴフ港に向かう。峩々たる峻険(しゅんけん)は白銀に覆われ、その頂はまた霧につつまれて、高さもわからぬ大斜面を、和かんじきを履いて登る。登り詰めれば急斜面がまた行く手を遮る。このような上り下りの雪の進軍32キロ、10時間を費やしてついにチチャゴフに達し、アッツ島を完全に制圧しました。

 

1942年7月
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/list.cgi?value=19427

日本ニュース 第109号(1942年7月)11分42秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300494_00000&seg_number=003

江西作戦     03:01
泰・仏印国境確定 02:00
前線移動病院   03:41
ニコバル諸島戡定 02:54

江西作戦     03:01
支那事変記念日を前にして皇軍の威武、大陸にあまねく、重慶を震撼せしむ。浙江の沃野(よくや)に、重慶軍第3戦区を席巻した皇軍は、なおも敗走する敵を追って6月17日、ついに江西省との境を突破、破竹の進撃を続行する。このあたり、すでに雨季も過ぎて水田の植え付けも終わったが、同時に猛烈な暑さが始まろうとしている。我が空陸一体の巧妙な作戦に浮き足立った敵は歯向かう術も無く、サンケイチンの高地に拠ってわずかに抵抗を試みたが、我が軍はたちまちそれを潰走(かいそう)せしめた。
(音声中断)は、さらに西に向かって追撃。南昌南方より東に進む友軍との握手の日も近い。

泰・仏印国境確定 02:00
昨年の10月、日本側委員立会いのもとに、泰、仏印間に国境画定の現地作業が始められてからおよそ8ヶ月。あるいは未開の土地を切り開き、悪疫と戦って行われた三国現地委員の努力はようやく実を結び、最後に残されたカンボジア王国の古跡、アンコールワット付近の作業がこのほどめでたく完了するにいたりました。一番後に残されたこの地方は、このあたり最大の湖タイ湖にまたがり、湖の上に平和の標柱を打ち立てる。付近はまったくの湿地帯で、一行は水牛に車を引かせて目的地に向かう。
時には象を操って困難な測量の旅が続けられましたが、三国が相協力して行う現地作業は、米英撃滅の戦いの最中に、新しい東亜の礎を象徴するかのごとく、いと和やかに進められていったのであります。

前線移動病院   03:41
ビルマの前線に現れた3台の大型自動車。愛国号の名が示すとおり、これは銃後の人々の感謝から生まれた組立て式移動病院です。前線から前線を駆け巡って、時には敵の弾を浴びながら傷病兵の応急処置に素晴(すば)らしい威力を発揮しているのです。
消毒装置も完備して、その技術と設備は、我が国の軍事医学が敵に比べて、格段に優れていることを示しています。
南の海にぽっかりと赤十字の印も鮮やかに待ちに待った病院船が訪れてきました。遠く祖国を離れた海の兵が、激しかったあの戦いに傷つき、思いもよらぬ頑強なこの病に倒れて前線基地で無念の涙を飲みながらも、再び各地に希望をかけて待っていた病院船。基地から基地へ、レントゲンの設備までも申し分なく、さながら一つの大きな病院を形作って平和な姿を滑らせていくこの船の中で、次々に元気を取り戻していく兵(つわもの)たちにまもなく第一線に立ち働く日が巡ってくるでありましょう。

ニコバル諸島戡定 02:54
インド洋の朝まだき、6月13日である。すでに季節風の時期に入った洋上に、黒煙を吐いて海の艨艟(もうどう)は、新たなる地点ニコバル諸島へと行動を開始した。先に戡定(かんてい)をみたアンダマン諸島をはるか南に下って、スマトラ島に対するニコバル諸島。インド洋から退却を続けるイギリス軍がこれらの島に、東インド洋の防衛をわずかに託す。南海の夜は明けた。我が海軍陸戦隊の精鋭は大軍艦旗を奉じて、まず小ニコバル島へ。頼もしや、空から航空部隊が協力する。
イギリス軍守備兵はいち早く守りを捨てて、その影もない。住民は髪や髭だけは文明国仕込ながら、いとも南海向きの服装で我が軍を歓迎する。その案内でまたたくまに島内戡定(かんてい)を終わり、墨痕(ぼっこん)鮮やかに大日本帝国海軍占領の標識は打ち立てられた。英国旗に代わって赤道近く、またもはためく大軍艦旗に銃剣を捧(ささ)げて祖国に伝える占領の感激は、東インド洋完全制圧の喜びでもあった。

 

日本ニュース 第110号(1942年7月)10分29秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300495_00000

賀陽宮殿下台臨 ダヴィンチ展開く 04:03
再建に孜々昭南の俘虜       02:44
ナツナ諸島戡定          01:49
アリューシャン作戦米機撃墜    01:47

賀陽宮殿下台臨 ダヴィンチ展開く 04:03
盟那、イタリアが生んだルネッサンスの天才レオナルド・ダ・ヴィンチの業績を、模写その他によって一堂にわかりやすく集めた展覧会が、かしこくも賀陽宮殿下の台臨(たいりん)を仰ぎ奉り、7月11日東京で開かれました。我が国では科学者としてよりも画家としてのダ・ヴィンチがよく知られておりますが、これは彼の最大傑作、キリストを中心にきわめて精密に描かれた「最後の晩餐」。これとともに「モナ・リザ」の像はもっとも広く愛好されているものでありましょう。しかしながら今日、我々がより深く彼に注意を向けるゆえんは、すでに500年の昔、我が室町、戦国時代の頃に、驚くべき数々の機械設計図を残したことであります。これはその一つ、水力を巧みに利用した水揚げ機。次にネジり切り旋盤。原理はまったく今日のものと変わりません。巧妙なる造幣機。橋梁に見る力学もなんら矛盾を認めないのであります。科学者レオナルドは当時、築城の大家でありましたが、同時に彼の才能は兵器設計においても発揮され、大砲に初めて照準機を取り付けたり、三列式速射砲を考えたり、近代兵器の狙いをすでに持っていたのでありました。当時の砲弾は球形のものでありましたが、彼は抵抗と炸裂(さくれつ)力から割り出して、現在の砲弾と同じ形のものを考えていました。西暦1452年に生まれ、1519年に世を去った彼が既に飛行機や落下傘の原型を考案していたことは、レオナルドの想像力がはるかな大空にまで展開したことを知り得べく、彼の広く深い全人的活動とその脈々たる精神は、大東亜戦完遂へ向かう日本人のものとして深く省みるべきでありましょう。

再建に孜々昭南の俘虜       02:44
かつてイギリスがインド兵を駐屯せしめた昭南島の兵舎。ここに収容されて我が部隊長の指揮を受け、ありがたくも厚恩に浴し、感謝の日々を送るイギリスの俘虜(ふりょ)たちが、昭南島の再建工作に使われ、孜々(しし)として働いています。我が軍はこれを俘虜(ふりょ)の知能に従って、トラックなどの輸送部隊、体力による労務部隊、および特殊技能を持つ技術部隊の3つに分けております。さて、点検を終わった各部隊は、一斉に営門を出発、作業場に向かう。その昔、傲然(ごうぜん)と構えてこの町に君臨した彼ら、今、手車大隊となって半裸体の姿を街頭に進める。自らが構築し、自らが破壊した建築物を、自らが取り片付けに勤しむ俘虜(ふりょ)の群れ。中に特殊技能を持つものは、土木工事に使われています。このようにして、あらゆる力を集めて、日一日と昭南島は復興し、日本の実力は住民たちの間に無言のうちに心から頼りうる安全感を与えているのであります。

ナツナ諸島戡定          01:49
マレー半島とボルネオ島の間に浮かぶナツナ島。すでに南方オランダの領土がことごとく皇軍の制圧下にある時、この諸島のみ最後のオランダ領として敵潜水艦の本拠地となり、わずかに蟷螂(とうろう)の斧にも等しき抵抗を試みていました。6月21日、我が海軍陸戦隊は蠢動(しゅんどう)する残敵を掃討すべく南の海を押し渡る。攻撃を控えて海の精鋭、少しも迫らず、悠々甲板洗い方の日課に励む。目的地は近づいた。日頃の訓練を2つの腕(かいな)に力込め、陸戦隊の勇士らは颯爽(さっそう)と上陸地点に漕ぎ進む。皇軍来ると聞くや、オランダ守備兵は早くも山中深く遁走(とんそう)し、跡には自ら焼き捨てた無線電信機がくすぶるのみであった。彼らはこの島から潜水艦に連絡し、我が兵站(へいたん)線撹乱(こうらん)を夢見ていたのである。暴虐オランダ兵去って、今までデマに迷わされていたロシア人を加えて約4000の住民たちは、東亜民族解放の真意を初めて悟り、瞳を輝かして皇軍に協力する旨、誓いました。

アリューシャン作戦米機撃墜    01:47
皇軍、アリューシャンに上陸して、本土を脅かされたアメリカは、双発コンソリデーテッドを始め最優秀機を我が占領下のキスカ島に送って、我に挑戦し来る。しかも敵の爆撃は功を奏せず、かえって的確なる我が防御砲火に次々と撃破され、北の守りいよいよ固し。これは敵の猛爆と敵機撃墜の瞬間をとらえた貴重なる記録であります。

 

日本ニュース 第111号(1942年7月)10分59秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300496_00000

大元帥陛下 海軍航空隊行幸 02:45
広田使節 泰国訪問     02:36
海鷲武勲の蔭に       02:42
江西作戦<大陸作戦>    01:10
蘇北作戦<大陸作戦>    01:39

大元帥陛下 海軍航空隊行幸 02:45
かしこくも大元帥陛下には7月13日、土浦海軍航空隊に行幸。親しく海鷲訓練の状況を見そなわせられました。この日陛下には、霞ヶ浦航空隊本部へ臨御(りんぎょ)の御後、土浦に向かわせ賜い、土浦航空隊司令以下、謹んでお出迎え申し上げるうちを着御(ちゃくぎょ)。練兵場において飛行科練習生の海軍体操、航空整備術、銃剣術等を天覧(てんらん)あそばされました。
次いで鹵簿(ろぼ)を再び霞ヶ浦航空隊に進め賜い、午後1時32分、陛下には飛行場に設けられた玉座に着かせ賜う。その時、連合航空隊揮下飛行隊の約300機。堂々の編隊陣を展開。叡覧(えいらん)に供し奉りました。かしこくも大元帥陛下におかせられましては、今次(こんじ)大東亜戦争にあたり、皇軍未曽有の戦果を深く御嘉尚(ごかしょう)あらせられ、このたびの行幸になったものと漏れ承りますが、聖慮(せいりょ)のほど拝するだにかしこき極みであります。

広田使節 泰国訪問     02:36
大東亜戦争勃発するや、ただちに我が国と攻守同盟を結んだ泰国は、先にピア・パホン中将を同盟締結慶祝使節として我が国へ送ってきましたが、我が国からはこのほど、広田答礼使節を特派し、これに答えました。広田特使は国賓として7月12日、谷田部大使以下随員を従えジャクリ・マハー・プラサート宮殿に参入。アテイット摂政殿下をはじめ泰国摂政団に謁見。謹んで天皇陛下より泰国皇帝陛下に贈らせ賜う国書を贈呈。ここに盟邦泰国訪問の第一使命を果たしました。
終わってアテイット殿下より、同特使以下に勲章が贈与されました。
続いて同日午後、特派大使はピブン首相をその官邸に訪問、無事、大任を果たした挨拶を述べました。かくて両国は相携えて東亜共栄圏建設に協力し、長き伝統を有する両国の友好関係はますます緊密の度を加えることになりました。

海鷲武勲の蔭に       02:42
木かげに、静かに、翼を休める新鋭爆撃機。ここは前線の海軍航空基地です。遠く南の海を越えて、海戦に、敵軍事拠点爆撃に、赫々(かくかく)たる勲しを立てて帰ってきた海鷲を待ち構えていた整備員たちは、ご苦労様と労わりながら、すぐに発動機の分解手入れや機械点検に取りかかります。すさまじかった戦闘に、いつしか傷んだ胴体も丁寧に補強されていきます。まもなく発動機の手入れも終わり、前にも負けない手柄を立てるようにと祈りながら心を込めて取り付けられます。もうこれで命令一下、いつでも翼を強く張って飛び出していけます。ハワイ海戦にインド洋海戦に、はたまた珊瑚海やミッドウェー海戦に、歴史始まって以来の大戦果を挙げた我が無敵航空母艦が、長い戦闘航海を終って今、基地に帰ってきました。大東亜戦争勃発して半年、思えば長い航海であった。潮に洗われ、風に吹かれて、艦の塗料もすっかりあせました。水兵さんたちは大きな艦に、せみのように止まりながら塗り替えに一生懸命です。
また、母艦の上では次の作戦に備えて、将兵が元気に体を鍛えています。

江西作戦<大陸作戦>    01:10
重慶軍第3戦区を覆滅すべく、浙かん線の完全占領を目指して皇軍の諸部隊は、浙江の山野を踏み破る。山また山を踏破して、難行軍を続ける我が将兵に、折から豪雨の時を過ぎて、耐えがたい暑さが襲ってきた。しかも精鋭の意気さらに衰えず、一気果敢な攻撃に戦果は刻々に拡大されていく。

蘇北作戦<大陸作戦>    01:39
揚子江の河口、蘇北地区に盤踞(ばんきょ)する新四軍。和平地区の治安撹乱(こうらん)を企てる蒋軍、今だ目覚めず、されば膺懲(ようちょう)の鉄槌を下さんと、蘇北後衛和平軍は我が部隊に協力。皇軍の指導下に決然立って殲滅(せんめつ)に赴く。新しき秩序への協力に何者が抗しえようか。敵が誇る精鋭新四軍はたちまちに蘇北から消滅されていく。
赫々(かくかく)たる戦果の挙げられていく最中に、和平軍は副師長徐承徳将軍を失った。大きな勲しをしのんで壮烈な戦死の地に碑を立て、その冥福を祈る。

 

日本ニュース 第112号(1942年7月)10分52秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300497_00000

大元帥陛下天覧 空地連合演習 05:53
感状七度軍神 加藤少将    01:53
両洋を制す帝国海軍部隊    03:01

大元帥陛下天覧 空地連合演習 05:53
かしこくも大元帥陛下には7月21日、栃木県宇都宮の陸軍飛行場に行幸あそばされ、空中と地上に展開される壮烈なる陸軍特別演習を親しく見そなわせられました。陛下には飛行場に着御の御後、まず山田統監のご先導にて玉歩を格納庫脇に進め賜い、落下傘部隊用兵器・被服等、および、敵が精鋭を誇るロッキード・ハドソン、ホーカー・ハリケーン、マーチン等の鹵獲(ろかく)飛行機を天覧あらせられました。次いで天覧の光栄に勇み立つ無敵陸軍落下傘部隊の攻防演習は、パレンバン、カリジャヂの激闘もさこそとばかり、大東亜を覆う威武をこの一瞬にあらわして、すさまじい立体戦の絵巻を繰り広げました。
仰げば尊し、大元帥陛下には折からの猛暑も御厭(いと)いなく野外にお立ちあそばされ、お熱心に天覧あらせらる。空からの猛威激しくようやく地上からの威力減ずると見るや、はるかなる空からまたも攻略軍の大編隊。これぞかつて勝利の光を純白の絹地に溢れさせ、南の空パレンバンに乱れ開いた花の群れ、敵の虚(きょ)を突き天下る奇襲部隊の姿ではありました。急襲部隊、地上部隊、いずれ劣らぬ覇気に燃えて実戦さながらの熱戦は続けられたのであります。
陛下には演習終了後、参加両軍部隊の堵列(とれつ)する戦線を御巡視あそばされましたが、このたび親しく陸軍将兵の指揮を鼓舞、激励あらせられた聖慮のほどは、拝するだにかしこき極みであります。

感状七度軍神 加藤少将    01:53
帝国陸軍、空の至宝加藤建夫中佐、昭和17年5月22日、小癪(こしゃく)にもビルマのアキャブに飛来せる敵機を追ってインド洋に出で、見事これを撃墜せる後、従容(しょうよう)として自爆する。新鋭はやぶさを操って、その勇猛をうたわれた荒鷲部隊長。支那事変から大東亜戦争にかけて感状七度、かしこくもこの度上聞(じょうぶん)に達す。而(しこう)して特進2階級の栄誉になった加藤少将のありし日を前線にしのぶ。向かって左から3番目、黒眼鏡、飛行服に身を固めた凛然(りんぜん)たる少将こそは、敵軍恐怖の的であり、我らにとっては頼もしき空の武将であった。今は亡き軍神が、尽忠の誠と熱烈たる愛国の至情を披瀝(ひれき)して、愛児に寄せた消息に曰く、「日本は今、世界の人が『あっ』と驚く様な大戦争を、しかも勝ち戦をやって居り、尚、日本の栄えるのもほろびるのも此の戦争に依って決まるのだ。此の大事な時に生まれて来た父も、お前達も幸福と思わねばならぬ。立派な日本少国民になるよう、しっかりやれ。」この軍神の心こそは、我々日本人の決意と責任を強く物語るものである。

両洋を制す帝国海軍部隊    03:01
本年7月10日現在における無敵海軍の大戦果。敵艦船撃沈破558隻、敵船拿捕(だほ)503隻、敵機撃墜破2529機。昼夜を分かたず血のにじむ苦心を重ねて常に敵を探し求める我が海軍索敵艦隊。ひとたび発見するや必ずこれを撃滅する我が海軍航空部隊。その轟々(ごうごう)たる爆音は太平洋を越えてアメリカをおののかせ、インド洋を制圧して果てしなき絶望にイギリスを駆り立てる。空の精鋭銀翼(ぎんよく)をきらめかせる時、海の艨艟(もうどう)は白波を蹴(け)立て、これに歓呼する。
かつて5、5、3の比率のもとに、世界一海軍国たらんことを夢見たイギリス、アメリカの2国は、今、両洋も狭しと活躍する我が海軍部隊の威力の前に、生きた気色も無く慴伏(しょうふく)している。されど、時に蠢動(しゅんどう)する者無きにしも非ず。さらば海の兵(つわもの)の訓練は、夜を日に継いで暑さ寒さの区別無く猛烈を極め、見敵必殺の剣は研ぎ澄まされていく。

(艦船の砲撃風景)

 

1942年8月
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/list.cgi?value=19428

日本ニュース 第113号(1942年8月)12分39秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300498_00000&seg_number=004

三将軍占領地視察      03:46
バ・モ博士 日本国民に挨拶 03:55
浙責作戦温州入城      01:42
枢軸軍北阿猛進       03:11

三将軍占領地視察      03:46
マレー半島からイギリス国旗、姿を消して早くも半年を数え、平和と建設の気、漲る占領地一帯。寺内・山下両将軍がつぶさに巡視(じゅんし)の歩みを進めています。まだ道の傍らには敵軍降伏の名残りを留め、鬱蒼(うっそう)たる森林地帯が温度高く湿り気の多いこの地方を物語っています。両将軍は車をカメロン高原にまで走らせ、ベラ州政廰農務局の蒐集所を訪れました。
さらに南に向かって、かつての激戦の地、クアラルンプールを訪ね、マレー半島第一の産物たるゴムに関して研究の跡を辿る。アメリカ・イギリスが東亜支配の野望も虚しく、ゴムを失って憐れな狼狽(ろうばい)を続ける中にあって、我が国のゴム利用の方途はますます広く、現地研究所の活躍は大いに期待されているのであります。
龍陵(りゅうりょう)の町をよぎるてん緬公路(めんこうろ)。重慶が命と頼む援蒋物資の山が、残骸が、皇軍疾風迅雷の進撃を物語る。ビルマ方面軍最高指揮官、飯田中将は、支那事変記念日たる7月7日、国境を越えて雲南省に踏み入った我が怒江(どこう)戦線の初の視察を行いました。
重慶軍が自ら破壊する恵通橋(けいつうきょう)。今、この怒江(どこう)を挟んで重慶軍と相対峙する第一線に立って、飯田将軍は親しく戦況を視察。第一線将兵の士気を大いに鼓舞しました。

バ・モ博士 日本国民に挨拶 03:55
《字幕テロップ》(アナウンスも有り)
「新生ビルマ行政府長官に
八月一日歓呼をあびて新任した元首相
バ・モ博士が就任に先だち
日本ニュースを通じて我国民に
次の如く心からなる挨拶を
寄せました。
全ビルマ人を代表して―」

<バ・モ博士>
「ビルマ人の指導者として
私は日本国民に御挨拶します。
旧秩序の世界では英米が
吾々を苦しめた
しかし、今や東亜新秩序を
つくり上げた日本によって
ビルマは解放された。
吾々両民族の親愛の盟ひは
新秩序建設のため共に戦ひ
血と汗で鍛へられてゆく。
ビルマ人は東條首相の約束に
絶対的信頼を置いている。
ビルマ人は日本人を肉親と考へている。
日本人もビルマ人を兄弟と考へて頂きたい。
ビルマが戦場となったとき、
吾々は血を以て日本人にその親愛の念を現はした。
もし今後とも必要あらば
吾々は喜んで血を捧げるであらう」

浙責作戦温州入城      01:42
浙かん鉄道を完全に占領し、なおも南に下る陸軍精鋭部隊に呼応して、帝国海軍部隊は海上から温州に迫る。皇軍のビルマ戡定(かんてい)作戦全くなって、死の苦しみにある重慶が頼みうるところは海からジャンクその他によって、僅かに補給される、たかの知れた物資である。その陸揚げ地温州へ舟艇を連ねて7月初旬、海軍陸戦隊の精鋭は上陸作戦を敢行した。既に戦意なき残敵は早くも堅固なるトーチカを捨てて遁走し、温州防衛の敵陣、寂として声なし。援蒋と名の付くものは何ものをも許さず、俊英にして緻密なる作戦は、しらみつぶしに敵の拠点を突いていくのであります。
既にして敵が得意とするゲリラ戦も行うに余地なく、7月11日温州の攻略なり、市中において南下する陸軍部隊と感激の連絡なる。

枢軸軍北阿猛進       03:11
北アフリカ、リビアにドイツ・イタリア枢軸軍は本年5月下旬、突如行動を起こし、イギリス軍の牙城(がじょう)トブルクに向かって猛烈な進撃を開始した。この枢軸軍活躍の記録を本社は世界戦争下、多大の困難をおかして入手。ここに全国民の前に送ることになりました。
ロンメル将軍、トブルクを望んで自ら前線に立ち、戦略を練る。
(枢軸軍進軍の様子)
酷熱を冒して行われつつあるリビア作戦は大東亜における皇軍の赫々(かくかく)たる大戦果に鼓舞されて、大いなる進展を遂げたものでありますが、英米の作戦、第二戦線形成を課題にして常に一致せざるとき、枢軸の誓いはドイツ・ロンメル、イタリア・カバリーロ両将軍相寄って、前線に固き握手を交わす。

(両将軍、握手・談笑)

枢軸軍得意の機械化集団の猛進は作戦困難を極める砂漠地帯を征服。6月21日トブルクを落とし、地中海完全制圧に向かって、着々邁進(まいしん)しつつあります。


(最後)12分30秒のところで、行軍している兵士の列を背景にして。

二百丗億達成

第四囬戰時 貯蓄債券 報國債券
一枚十円・五円
賣出迫る
八月廿一日より 九月廿一日まで

大藏省・逓信省・日本勸業銀行

(日本ニュース 終)

 

日本ニュース 第114号(1942年8月)8分22秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300499_00000&seg_number=002

ビルマ行政府成立  02:42
全土に溌剌健民運動 03:46
日英交換船出発   01:49

ビルマ行政府成立  02:42
我が軍政の指導下に、住民の歓呼を浴びてビルマ中央行政府が、8月1日、ラングーンでめでたく発足いたしました。この日、飯田最高指揮官から行政府長官に任ぜられたバーモ博士をはじめ、新政府の9部長官は、いずれも反英抗争に血と涙の戦いを続けてきた人ばかり。全住民の指導者として信頼を勝ち得ている人々であります。
飯田将軍はバーモ長官以下の任命を終えた後、次の如く意義深い訓辞を述べました。
「本日ここに、軍政下新たに行政府の設立を見るに至ったことは、誠に慶賀にたえないところであります。本日、ビルマの行政府成立の記念すべき日にあたり、私は今後、同政府がいよいよ健全なる発達を遂げ、官民一致協力、大東亜圏、共栄圏の完成に力を注ぎ、貢献を成すと同時に、インドにおいてもこれに同調し、英国の覊絆より脱して、彼ららしき独立を招来することを念願してやまないものであります。」
「大日本軍万歳を三唱いたします。ヤポッン(日本)万歳。」
「万歳。」

全土に溌剌健民運動 03:46
今年から、全国で赤ちゃんの定期的な検診が行われることになりました。病気を予防し、お国の宝を一層丈夫に育てるために、健民運動はまず赤ちゃんの健全な発達からです。
「大切な赤ちゃんは絶対に子どもに任せてはなりません。それを見たおばあさんは驚いて赤ちゃんを抱えてきました。お母さんは赤ちゃんを抱くだけでも細心の注意を払っています。」
この東京の検診所では紙芝居でお母さんたちに色んな注意も与えるほか、日本で一番多い病気、結核を防ぐために、最も簡単で的確な方法、ツベルクリン反応の注射を試みています。
「結核菌が入り込んだかどうかということは聞いても、たたいてみてもわからないんですから、注射で調べるのが一番いい方法なんです。」
反応が陽性になったときは注意しなければなりません。
老いも若きも、男も女も、みんなが手軽に健康増進を図るのには、体操が最も手っ取り早く、効果的です。一、二、三、四、五、六、七、八。少しくらい具合が悪いのは吹き飛んでしまいます。これは、8日の大詔奉戴日に大阪で開かれたラジオ体操の市民大会。戦いのさなかに健康を増進するのは、我々の務めであります。体操はどこにいても暇があったら、みんなでやりましょう。有名な江木さんがスタンド体操にのりだしています。
「やー!はい、声が小さい。やー、はい、やー、はい、やー、はい、やー、はい、やー!はい、ゆるめてー。前を蹴飛ばさないように、足をブラブラ、ブラブラ、ブラブラ。はい、右、ブラブラ、ブラブラ、ブラブラ。はい、左、ブラブラ、ブラブラ、ブラブラ。手のひらを外に返して深呼吸、一、二、三、四、五、六、七、八、一、二、三、四、五、六、七、八、終わります。(聞き取り困難)組の有志の一日も早く御平癒をお祈りいたしまして、拍手。」
さて、最も健康で最も鍛えられた肉体は、こんな猛烈な体操を毎日何回となく繰り返して、参ってしまうどころか、ますます丈夫になっていくのです。この勇士たちはティモール島で活躍した海軍落下傘部隊の精鋭です。誰に言われるのでもない、教えられるのでもない、いつどこででもお国の役に立てるよう、この勇士たちに負けぬよう、私たちも立派な身体を作り上げようではありませんか。

日英交換船出発   01:49
浅間丸、コンテベルテ号の日米交換船に次いで、龍田丸とともに日英外交官その他一般在留民交換の重要任務に就く鎌倉丸が、平和の印、白十字も鮮やかに8月10日朝、横浜を出帆しました。鎌倉丸より一足先に7月30日、横浜を出帆した龍田丸は、8月3日上海に着きました。イギリス以下、インド、オーストラリア、エジプト、ベルギー、チェコ、オランダ、ノルウェイ、ギリシャ、ポーランドと今は地図の上から姿を消した、帰るに祖国なき人々を加えた454名がその船客。上海ではさらに支那各地、およびマニラから集まった325名を加えて、8月4日、交換地ロレンソ・マルケスへと向かいました。
大東亜にヨーロッパに、敗戦の一筋道を歩む故国イギリスへ、クレーギー大使は勝利に輝く日本の厳然たる姿を胸に抱いて帰り行くのであります。

 

日本ニュース 第115号(1942年8月)8分1秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300500_00000&seg_number=001

本間将軍帰還  02:07
昭南港復旧作業 01:59
海鷲不撓の索敵 03:51

本間将軍帰還  02:07
本間フィリピン方面陸軍最高指揮官は、赫々(かくかく)たる戦果と堅実な軍政の基礎を残して、今回、田中静壱中将と代わることになり、バルガス行政府長官以下、全比島民に別れを告げ、心から惜しまれながら帰還の途につくことになりました。本間中将は田中新最高指揮官らの見送りを受けて、懐かしの故国へ出発。
14日、参内を終えた将軍は次の如く語りました。
「私は敵もよく戦ったと思います。しかしながら、我が軍はそれに数倍、もしくは数十倍勇敢に戦ったことに対して誇りを感じ、また敬服いたしておるものであります。しかしながら、この間、多数の忠勇なる陛下の赤子を、あるいはジャングルに、あるいは海に、あるいは陸上に失いましたことに対しましては深く責任を感じ、かつ皆様にお詫びを申し上げる次第であります。」

昭南港復旧作業 01:59
皇軍猛攻撃の名残りを今なお留めて、過ぎし日の激戦を物語る昭南島のセレター軍港では、崩れ果てた堤防の改築工事をはじめとし、すばらしく大きな屑鉄、壊れた起重機のとりかたづけに、大勢のマレー人、インド人を使って着々逞(たくま)しい復興作業が進められております。
埋まった水路の浚渫(しゅんせつ)もどしどし進められ、沈没した敵船の引き上げには日本人の潜水夫が活躍しています。今や昭南島はこのように、日一日と面目を改め、イギリス色を洗い流し、大東亜の関門に相応しい、美しい昭南島として更生するのも間近いことでありましょう。

海鷲不撓の索敵 03:51
開戦以来9カ月、度重なる海鷲のあげた大戦果、近くはソロモン海戦の輝かしい勝利が世界の耳目を聳動 (しょうどう)させているとき、南の基地に堂々偵察・索敵の任務を果たす我が海軍航空部隊写真班の勇姿があります。飛行機に据え付けられた大きな写真機に原板を入れて出発。
やがて目的地の上空に達し、撮影が始まります。
こうして撮った写真はすぐ基地に帰って精密な地図に作られ、我が海鷲独特の果敢な作戦の貴重な資料となるのであります。
このような、正確な基礎と旺盛なる攻撃精神を機体いっぱいにみなぎらせた新鋭海軍攻撃機は、今日もまた遠く敵影を求めてインド洋上に堂々翼を張る。途中、白線を引いて走る海上部隊に挨拶を送る。
去る4月、インド洋海戦に完敗せるイギリス海軍は蠢動(しゅんどう)の余地もなし。よって報告に曰く、「インド洋、敵を見ず」。

 

日本ニュース 第116号(1942年8月)9分34秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300501_00000&seg_number=004

若人逞し体育祭典       03:01
日米交換船帰る        02:50
ボルネオ シブ州庁開く    01:59
ビルマに熱烈 反英印度人大会 01:39

若人逞し体育祭典       03:01
橿原の聖地に敬虔なる頭を垂れる若人の群れ。これは未だ、暑さ消えやらぬ8月22日、文部省大日本学徒体育振興会主催で開かれた第一回全国中等学校、師範学校、並びに国民学校、青年学校教員の体育大会開会式であります。神宮参拝の後、民草の汗の奉仕によって作られた外苑運動場に一万余の役員・選手集合してほぼ堂々の入場式を行う。
橋田文部大臣、かしこくも青少年学徒に賜りたる勅語を奉読。終わって、遙々(はるばる)式場にのぞんだ東條首相は次の時代を担う若人を激励すれば、溌剌(はつらつ)たる血潮はいやがうえにもわき踊るのでありました。
民健やかなれば、国憂いなし。銃後に鍛える青少年の意気は、橿原に、甲子園に、我ら一億の心構えを遺憾なく示して、あるいは競争に、あるいは勇ましい国防競技に、真摯敢闘の健民絵巻を繰り広げました。

日米交換船帰る        02:50
ポルトガル領南アフリカのロレンソ・マルケス。ここに7月22日、グルー駐日アメリカ大使以下、1500名を乗せた交換船・浅間丸とコンテベルデ号が入ってきました。既にアメリカ州からスウェーデン船グリップスホルム号で引き上げてきた邦人の一行は、20日に到着。我が二隻の船の入港を待ちわびていました。
乗客の交換が開始されました。グルー大使以下は、敗戦におののく故国アメリカへ。これに引き替え邦人の一行は、大東亜に共栄圏建設の偉大なる歩みを進める祖国日本への第一歩ではあります。
これらの中にあって、欧州在勤を命ぜられた森島総領事の一行15名を残して、日章旗翻る浅間丸、コンテベルデの両船は、7月26日、ロレンソ・マルケスを出帆。ロレンソ・マルケスを離れるや、船中ではただちに宣戦の大詔奉読式が挙行されました。野村大使が恭しく、かしこき大詔を奉読。邦人の胸には、等しくありがたき感激が盛り上がりました。万邦無比の日本へ。戦う祖国へ。船足も軽く、快適の航海が続きました。
8月20日、懐かしの横浜に無事入港。去る6月18日、ニューヨークを出発してからおよそ2カ月。航程実に1万7000海里でありました。1421名の帰朝者は、遙々(はるばる)、8000海里の彼方、アフリカのロレンソ・マルケスまで、貴重なる両船を派遣せられたる聖恩の広大さに感泣するとともに、祖国において一層職域奉公の誠を致さんことを誓ったのであります。

ボルネオ シブ州庁開く    01:59
ボルネオのレジアン河流域は肥沃なデルタ地帯をなし、未開の宝庫と呼ばれています。このレジアン河を溯ること約120キkm。シブの町に、8月8日の大詔奉戴日を期して、新たに定められたシブ州の州庁開庁式が行われました。
軍司令官、前田中将到着。暴戻イギリスの勢力全く地を払い、恩威兼ね備わる日本軍の軍政下に幸福な日々を送りながら、心からなる感謝をもって忠誠を誓う住民は、この州全体で約20万。
この日、頭目や酋長に率いられて式場に馳せ参じた住民は、有名な首狩りのダイヤ族をはじめとして、カヤン・カヤックその他数十種に上りましたが、数多の種族がいずれも心を一にして、この州の開発に全力を尽くし、飽くなき搾取を続けたイギリス・アメリカ打倒の聖戦に参加せんことを願ったのであります。

ビルマに熱烈 反英印度人大会 01:39
インド国民会議派のガンジー、ネール、アラット三巨頭は8月9日、ついにイギリスと正面衝突、逮捕されましたが、三巨頭監禁の報伝わるや、インドに隣する国ビルマのラングーンに英印交渉の成り行きを見守っていたインド人たちは、翌10日一斉に起って、示威(じい)運動を開始。
「イギリスよ、我らが祖国より全面的に撤退せよ。アジアをアジア人の手に返せ」と、熱烈な叫びを上げました。
熱狂したインド人はさらに国民会議派の標旗を先頭にラングーンの市中を練り歩き、口々にイギリス打倒を唱えて、気勢を上げました。


(最後)9分25秒のところで、東南アジアの地図を背景にして。

二百丗億貯蓄達成

第四囬戰時
貯蓄債券 廿円・十円・五円
報國債券 十円・五円
売出中
九月廿一日まで

大藏省・逓信省・日本勸業銀行

(日本ニュース 終)

 

1942年9月
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/list.cgi?value=19429

日本ニュース 第117号(1942年9月)11分32秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300502_00000&seg_number=002

明治神宮 国民練成夏期大会 02:43
交通道徳の高揚運動<銃後奉公輸送力の増強少年産業戦士輔導> 02:30
少年産業戦士同郷の集い<銃後奉公輸送力の増強少年産業戦士輔導> 02:16
セレベス島残敵殱滅戦    03:57

明治神宮 国民練成夏期大会 02:43
第13回明治神宮、国民錬成大会夏期大会は、かしこくも高松宮・同妃両殿下、三笠宮妃殿下の台臨(たいりん)を仰ぎ、8月28日、横浜と東京において一斉に開催されました。大東亜戦争下、海国日本の意気を示す海洋競技は、横浜海洋道場において行われました。郷土の栄誉を担って出場した一般選手とともに、海軍有志の敢闘も見られました。
30日の最終日には、折からの豪雨をものともせず、往復4000メートルの遠泳を敢行した海軍編隊遠泳は、たゆまざる鍛錬のほどもしのばれて、南に北に赫々(かくかく)たる武勲をたてた帝国海軍の面目躍如たるものがありました。
一方、明治神宮外苑、水泳場において、水泳日本の誇りも高く、水上競技の数々が3日間にわたって行われました。かしこくも高松宮、三笠宮両妃殿下には、30日水泳場に台臨(たいりん)。応援に感激した選手の意気はいよいよ上がり、女子中等府県対抗200メートル競泳において、旗野さんが2分40秒4の日本新記録を樹立したのをはじめ、各選手、真摯敢闘の誠を明治神宮の大前に捧(ささ)げて、戦時下に相応しい水の祭典を終わりました。

交通道徳の高揚運動<銃後奉公輸送力の増強少年産業戦士輔導> 02:30
戦争遂行に必要な軍需品の生産や輸送に、交通機関は非常に大切な役割を果たしており、なかんずく鉄道は兵器であるとさえ言われております。そしてこの輸送力を増強することは、我ら一般銃後国民の協力によってのみ、初めて行われるのであります。
「御順にどうぞ、中になります。続いてご乗車願います。御順にどうぞ、中になります。さあ、もうちょっと中に入ります。」
「お待ちどうさまでした。」
一列励行、左側乗車、荷物制限と、今、全国各地で交通道徳の強調運動が展示されております。
「本日は交通訓練強調日であります。お互いに交通道徳を守りましょう。電車の左側待ち合わせ乗車は必ず御励行願います。一番線は山手線、大塚・池袋方面行き。本日は交通訓練協調日であります。互いに交通道徳を守りましょう。電車の左側待ち合わせ乗車は必ず御励行願います。駅内ではお互いに汚さぬようにいたしましょう。駅構内では、灰皿を御使用ください。」
「この列車は交通道徳模範列車であります。ただいま、回覧板を御回しいたしますから、御順に御覧ください。」

少年産業戦士同郷の集い<銃後奉公輸送力の増強少年産業戦士輔導> 02:16
重要産業に雄々しく立ち働く少年産業戦士に対する精神的補導の必要から、東京府および産業報国会では九段の軍人会館に、「少年産業戦士同郷の集い」を各県別に開きました。産報、ミナミ氏の講演の後、演壇にずらりと並んだ先生は昔の教え子に温かい言葉を贈りました。
「私どもは、去る3月、皆様方に卒業証書をお手渡しすると、まもなく産業戦士として故郷を遠く東京地方に送り出しましたが、その後、皆様方の御両親と共に、私どもの胸の中、頭の中に、一日として忘れることのできないのは、皆様方がどうしてお過ごしになっておられるか、体は丈夫であろうか、病気はしないだろうか、怪我などはなかろうか、行いの正しい素直な人間であってくれればよろしい、こういうことであったのであります。然るにこの3日間にわたる工場見学におきまして、私どもはこれらの憂い、心配を一掃することができました。」
続いて、先生と旧生徒との間に挨拶が交わされました。
「伊勢崎植蓮国民学校、モテギ先生。」
「南国民学校、キタニ先生。」
休憩室では、恩師を囲む教え子たちの心から楽しげな風景が見られました。
「丈夫じゃなくちゃだめだよね、ご奉公は。体がもとだものね。健康が第一。それに病気なんかしやしなかったかい?風邪引いた人はあるかい?ん?」

セレベス島残敵殱滅戦    03:57
我がセレベス海軍陸戦隊は、セレベス島中部に蠢動(しゅんどう)する残敵を掃討すべく、6月21日ポソに上陸。悪路と戦いながら、その包囲、殲滅(せんめつ)戦を開始しました。去る1月11日、セレベス島メナドに降下した我が海軍落下傘部隊の強襲に、慌てふためいて中部セレベスに逃れた守備兵も、3月10日、蘭印軍の全面的降伏の報に、我が軍に投降し、後には設備ばかり整った彼らの兵舎が残るばかりであります。
なお、アメリカ・イギリスのデマ宣伝を信じて、山中深く逃げ込んだ敗残兵約120名を捕捉すべく、海軍陸戦隊の勇士は自動車の列を連ねて一斉に進発。
途中、住民の心を込めた挨拶を受けながら奥地へ向かう。7月7日、マタンコロン付近の山中に潜む残敵を発見、これに猛攻撃を加えました。
食うに食なく、住むに家なく、山中を彷徨していた蘭印兵は直ちに白旗を掲げて降伏し、憔悴(しょうすい)しきった憐れな姿で我が軍に捕らえられました。
かくて、セレベス全島の掃討全くなり、匪賊(ひぞく)化した蘭印兵を捕らえてくれた喜びに、付近に住むモリ族は皇軍勇士を大歓迎して、戦勝祝いの踊りを踊るのでした。

 

日本ニュース 第118号(1942年9月)10分17秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300503_00000&seg_number=001

東条首相 遺児団激励  02:06
海鷲の雄魂神鎮まりませ 01:37
共栄圏 反英印度人大会 02:38
活気漲る復興蘭貢    03:50

東条首相 遺児団激励  02:06
東條首相は9月5日、満洲国建国に尊い命を捧げた建国功労者の遺児、飯塚正義君ほか115名を官邸に招き、十周年式典慶祝会総裁として、遙々(はるばる)、新京の式典に参加する遺児団に団旗を授与、晴れの門出を祝って、次の如く激励の言葉を贈りました。
「諸君はこのたびの尊い感激により、さらにその覚悟を新たにせられ、さらにその誇りをしっかりと肝に銘じ、以てご父兄の遺志を立派に受け継がれるのみならず、さらに、さらに頼もしき日本人となり、十分お国の役に立つ人となられんことを希望する。」(音声中断)
遺児たちは、翌6日宮城前に整列。恭しく皇居を奉拝。松井慶祝会事務局長の発声で聖寿(せいじゅ)万歳を奉唱。ここに意義深い結団式を終わりました。

海鷲の雄魂神鎮まりませ 01:37
珊瑚海海戦に、ポートモレスビー爆撃に、その猛威を謳われ、アメリカ、イギリスをして、顔色なからしめた海の荒鷲。その勲しは永久(とこしえ)に薫り、不滅の武勲は長く正史に刻み込まれるでありましょう。されど、戦いの常として大空に散華、悲しくも雄魂、護国の神となって南の基地に帰るあり。椰子の葉陰にしばしの憩いを祈りつつ、8月12日、現地部隊の告別式がいと厳かに執り行われたのであります。一死以て君国に捧ぐ、もとより生還を期せず、尊くも勇士たちは莞爾(かんじ)として南太平洋に散華したことでありましょう。告別の式を終わり、戦友の胸に抱かれて、英霊は静かに南の基地を去るのでありました。懐かしの母国へ、靖国の御社(みやしろ)へ、数々の手柄話に彩られて、我々国民は偉大なる戦果の影に忠勇(ちゅうゆう)無比の英魂の我々を守り給えることを忘れず、深き感謝の祈りのうちに日々を送らねばなりません。

共栄圏 反英印度人大会 02:38
「祖国を我らインド人の手に返せ。イギリスを打倒せよ。」国を奪われた民族、インド人の雄叫びはもって一丸となり、8月15日、バンコクにインド独立連盟総会が開かれました。共栄圏に住む200万から選ばれた代表、一堂に会し、遙々(はるばる)、日本から馳せ参じた総裁ラス・ビハリ・ボース氏を座長に熱血の反英抗争を獅子吼(ししく)する。その勢威、大東亜から全く地を掃ったイギリスは、しかもなお宝庫インドに鞭をふるって頑張っている。されば、代表は今後も叫ぶ。「我らのインドは勇敢に行動する者にのみ与えられるであろう」。(音声中断)
ガンジー、ネール、アラットら、国民会議派領袖逮捕の報を得て、昭南島に反英大示威行進が行われました。自由か死か、スローガンを高々と掲げて、イギリスがかつて東亜侵略の本拠地と頼んだこの土地に、5万のインド人は練り歩く。
世界の体制は変わった。時は今である。祖国に死を賭して戦う彼らの同胞に声援を送りながら、イギリス追放の必死なる戦いは刻々、高まっていくのであります。

活気漲る復興蘭貢    03:50
パゴダ燦然(さんぜん)と輝くビルマの首都、ラングーン。今、馬車の轍(わだち)の音、この都大路に平和な響きを伝え、僅か半年前に皇軍の精鋭が死闘を繰り返した新戦場とも思われぬのであります。既にして、ビルマ中央行政府なり、ビルマ防衛軍奮い立つ。治安は着々と回復の一途を辿って、かつて暴虐なる敵軍が、人の気配もない無惨なる廃墟と化した街並みには輝かしい復興の気がみなぎり、昔に変わらぬ雑踏と賑わいが取り戻されていきます。イギリス軍が破壊して逃げ去った自動車工場も優れた皇軍の技術によって瞬く間に修理され、有志の指導を受けて精密な機械の操作を学ぶビルマ人が、日一日と増えていく。
かつて、あまり勤勉ではないと言われたビルマ人の姿は既になく、ミシンにしがみついて懸命に立ち働く女性にも逞しい共栄圏建設の意欲がみなぎっています。
ビルマで一番大切な産物、米の生産も昔に戻り、ラングーンの大きな精米所は運転を開始しました。
ここから共栄圏の人たちに、雨季の後、濁水溢れるイラワジ河を乗り切って、十分な食料が運び出されるのであります。元気に満ちて勇ましく、復興と建設に邁進(まいしん)する今日この頃のラングーンの姿こそは、大東亜共栄圏の重要な一点たるに相応しく、頼もしい限りであります。

 

日本ニュース 第119号(1942年9月)9分11秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300504_00000&seg_number=002

慶祝満洲建国十周年 満洲国新国歌制定 01:55
躍進鞍山製鋼所            03:36
阿片戦争百周年 反英興亜大会     01:54
ビルマ防衛軍晴れの閲兵式       01:41

慶祝満洲建国十周年 満洲国新国歌制定 01:55
《字幕テロップ》
「満洲国 新国歌制定

おほみひかり あめつちにみち
帝徳は たかくたふとし
とよさかの 萬壽ことほぎ
あまつみわざ あふぎまつらむ」

(新国歌斉唱)

躍進鞍山製鋼所            03:36
林立する大きな煙突、巨大な機械の組み合わせ。ここは満洲国、鞍山の昭和製鋼所。古くは、鞍山製鉄所の名で知られていた。満洲国の建国とともに、新しい東亜の威力を見せて、躍進に躍進を重ねて、ここに10年。満洲国産業をあたかもこの一望に納めるかの如く、生産高の増大は日に改まり、月に進み、既に日本への供給予定量を突破、国防経済の重要な一翼を確保している。今や、大東亜戦争完遂に欠くことのできない鉄の生産が、ここでは貧鉱処理法(ひんこうしょりほう)の完成、銑鋼一貫作業と相まって、全機能を総合的に発揮、遂行されている。
真っ赤な鉄のかたまりがイギリスを打倒し、アメリカを打ち砕く力を見せる。見よ、鉄も生きている。東亜の理想をみなぎらせて、生きている。この事実は何を物語るか。共栄圏確立に力を合わせるとき、生産力の増強と楽土に生きる幸福が待ち受けているのだ。
日満一徳一心の誓いはあくまで固く、資源の国満洲国は大東亜戦争の経済基地として、日本に全面的協力を続けている。

阿片戦争百周年 反英興亜大会     01:54
イギリスがことを阿片戦争に構えて南京条約を結び、支那侵略に乗り出したのはちょうど100年前。その記念日を8月29日に迎えて、国民政府では南京に反英興亜大会を開催。汪主席は熱血の至情を吐露して、次の如く演説しました。
「百年前の南京條約は英国人が印度で栽培した
阿片を中国に売り付けんとした
非人道的侵略手技の所産である。
今日、この記念日に当たり
私は中国の進むべき大道を指示したい。
それは孫総理が嘗って神戸で説かれた
大アジア主義である。
吾々は孫先生の提唱した日支提携の大方針に則り
吾々の精神を集めて
大東亜戦争完遂を期するものである。」

《林柏生国民政府宣伝部長》
「大東亜精神を発揚せよ
東亜を復興せよ
東亜を保衛せよ
中華民国万歳」

ビルマ防衛軍晴れの閲兵式       01:41
晴れの門出に足並みを揃えて、意気軒昂たるビルマ防衛軍。温顔に深い慈愛をたたえ、しかも厳然として、飯田最高指揮官ビルマ兵を閲す。これは8月24日、ビルマのピンマナで開かれた防衛軍の閲兵式であります。我が作戦にいち早く協力し、あるいは峻険(しゅんけん)を越え、あるいは悪路を突き、皇軍の精鋭と労苦を分かち合いながら、イギリス勢力の駆逐に大きな役割を果たした義勇軍は、このたび数々の功績を残して解散。新しく防衛軍に改編されたのでありました。その誕生を祝う閲兵式に、輝かしい希望に満ちて指揮刀を振るうのは、若く勇ましい参謀長タキン・オンサン中佐。灼熱の太陽に銃剣はきらめき、新ビルマ防衛の重責を担う若い戦士の胸には心からなる喜びと覚悟のほどがうかがわれたのであります。

 

日本ニュース 第120号(1942年9月)11分42秒
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300505_00000&seg_number=001

満洲国 建国十周年式典 06:33
満軍荒鷲部隊訪日の途へ 01:19
航空日荒鷲献納式    03:45

満洲国 建国十周年式典 06:33
世界の新しき秩序を打ち立てたる戦い満州事変に次いで、産声高らかに満洲国が生まれてからここに10年。9月15日、かしこくも皇帝陛下の御臨を仰ぎ奉り、新京南嶺(なんれい)の広場に建国十周年を祝う曠古の式典が、いと厳かに執り行われました。

「おおみ光、天地(あめつち)に満ち、帝徳は高く尊し、とよさかの萬寿ことほぎ、あまつ御わざ、仰ぎ奉らん」(満洲国国家)

逞しき建設のうちに王道の光溢れ、五族協和の喜びは全満に満ちて、まこと楽土の名に相応しく、この日特にさし許されて帝徳行府に集う日満支官民代表はもとより、盟邦各国の外国使臣、いずれも粛然たるうちに歓喜自ずからみなぎるのでありました。
肉を削ぎ、骨を削り、今日の楽土建設に粉骨砕身した建国の重臣、張国務総理は感激に打ち震えつつ御座御前に参進、恭しく建国10周年を寿ぎ奉る。かしこくも皇帝陛下には、御声も朗々とありがたき勅語を下し給う。
やがて、若く逞しい成長を祝して千数百羽の鳩は放たれ、国作りの固めいよいよ固きを全世界に誇らかに示すが如く天空に舞えば、折から十の文字を描いて、式場上空には満洲国国軍飛行隊がこれに和すのでありました。
遙かなる新京の盛儀に呼応して、同じ15日、東京において、かしこくも高松宮殿下の台臨(たいりん)を仰ぎ奉り、満洲建国十周年慶祝式典が執り行われました。
慶祝会総裁東條首相は盟邦の力強き進展を祝い、次の如く語りました。
「顧みまするに昭和7年3月1日(いちじつ)、満洲国が東亜の一角に堂々建国を宣言いたしまするや、帝国は列国に率先をいたしまして、同年9月15日、これを承認。米英両国はもちろん、これに追従する諸国の執拗にして、しかも深刻なる干渉圧迫を敢然として排除いたしました。ついに国際連盟をも離脱。盟邦満洲国の独立とその健全なる発達とに協力して参った次第であります。米英の勢力を掃滅をいたしまして、大東亜に新秩序を樹立。共栄の楽土を建設すべき、大東亜戦争の遠因は、既にこのときにあったと申すべきであります。」

《李駐日満洲国大使》
「大日本帝国、天皇陛下、万歳。」
「万歳。万歳。」
《岸本東京市長》
「満洲国 皇帝陛下、万歳、万歳、万歳。」
「万歳。万歳。万歳。」

満軍荒鷲部隊訪日の途へ 01:19
我が軍の懇切なる指導のもとに、僅か5カ年にして確固たる実力を培った満洲国空軍では、各将相総指揮のもとに空の精鋭を選りすぐって、9月16日国都新京を出発、翼を連ねて訪日試航の壮途に上りました。五族協和の姿はここにも見られ、日満はもとより、蒙古白系露人出身の飛行士の顔も晴れ晴れと壮挙に参加する勇ましさ。
この編隊訪問飛行は、建国以来の、惜しみなく与え、五族の幸福を期する我が国の絶大な援助に感謝し、日頃の錬磨の痕を我が日本の前に披露せんことを願ったものであります。

航空日荒鷲献納式    03:45
国の守りは空の備えにあり。第三回航空日を9月20日に迎えて、民一億の心は一斉に空に凝り固まる。明けて21日、この民の赤誠を込めた報国号56機の献納式が、無敵海の荒鷲に一威力を加えるべく、東京で行われました。南に北に国民の期待を両翼に張って報国号の駆け巡るとき、イギリス・アメリカ最後のときが刻々に近づくのであります。
同じ21日、所沢の陸軍飛行場では、重爆、軽爆戦闘機、全て118機の愛国機献納式が、東條陸軍大臣臨席のもとに挙行されました。
「ここに愛国の熱誠をもって、献納せられたる飛行機を次の如く命名。」
場内を埋める人波を前に銀翼燦(さん)として輝くは、我が航空技術の粋を集めて、大東亜の大空に羽ばたく日を待ちわびた新鋭機ばかり。台風近く吹きすさぶ熱風の中に毅然たる鵬翼(ほうよく)を頼もしくも連ねている。
命名を終わるや、この日晴れの操縦桿を握る代表に心を込めた花束やお守りが、幸いに満ちた門出を飾るに相応しく美しい彩りを見せて贈られました。次いで献納機は爆音も高らかに、優れた性能を示して離陸を開始、意義深い空の祭典を閉じました。


(最後)11分22秒のところで、行軍している兵士の列、爆弾、富士山、次々背景にして。

兵強し 銃後は固し 國安し

軍人援護強化運動 十月三日⇔八日

軍事保護院

(日本ニュース 終)

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